もう一人の自分の正体
と感じるとすれば、それは当の本人ではないだろうか?
彼女は、本当に無口な女の子だ。だからこそ、格好の従者だったのだ。もし、彼女が口を開けば、少しずつ従者ではなくなっていく、口を開くということは、その一言一言に意思がハッキリしていることが分かってくるので、徐々、従者ではなくなってくる。
岡崎にとって、それが一番、恐ろしかったのだ。
だから、もし、彼女が口を開こうとでもしようものなら、必死になって、その口が開くのを阻止しようとすることだろう。
いかに、口を開かせないようにするかを考えると、本当であれば、考えたくもないことを考えなければいけなかった。
なぜなら、その必死さには、主人としての尊厳も何もかもない状態で、ただ、口を開かせないようにするために、必死になっている姿は、
「なんと情けないものか」
と自分で思うに違いないからだった。
幸いにも、彼女が口を開くことはなかったのだが、それなのに、どうしてそれ以降も彼女との間が続かなかったのかというと、
「俺が見捨てたんだ」
と、いうことだったのだ。
あれだけ、自分の考えに絶対だと思い、一緒にいればいいるほど、その気持ちを裏付けることになっていくのを感じていたのに、そんな彼女を、どうして見捨てるようなことになったのかというと、これこそ、岡崎のわがままでしかないのだが、その理由というのは、
「彼女が、髪を切ってきた」
ということからだった。
一緒にいる間、彼女が散髪にいくことは、当然あった。
そのたびに、短くなってきていたので、短くなった彼女の顔は見慣れているはずだったのに、その時は、何か自分の中で、音を立てて崩れるものがあったのに気づいたのだ。
実際に、崩れる音も聞こえたかのように思えた。
その一番の理由は、彼女が髪型を、
「おかっぱ」
にしてきたことが大きかったのだ。
おかっぱが悪いわけではないのだが、おかっぱにしてきた彼女を見た時、急にゾッとするものを感じた。
確かにおかっぱは悪いわけではないのだが、好きでもなかった。だから、好きでもない髪型にしてきた彼女に対して、急に冷めた感情になったのだったが、その理由として、
「まるで、初めて、この俺に逆らったかのように思えた」
というのが大きかったのだ。
無言の圧力のようなものがあった。完全に、
「マウントを取られた」
という感覚があったのだ。
おかっぱというと、想像したのは、
「座敷わらし」
だった。
ちょうど、座敷わらしの話を聞いた頃だったこともあって、本当にとっさに感じたのだった。
ただ、座敷わらしというと、本来はいい妖怪で、
「座敷わらしのいる家には、繁栄がもたらされる」
という。
しかし、
「座敷わらしがいなくなると、その家は一気に没落してしまうことになる」
ということだったが、その話を聞いた時、座敷わらしの本当の恐ろしさを感じさせられたのだ。
というのも、座敷わらしのおかげで、裕福になったのはいいのだが、いなくなると、一気に没落するということは、それこそ、天国から地獄に叩き落されることになり、想像しただけでも恐ろしい。
「どうせ、叩き落されるのであれば、なまじいい夢なんか見させることはないんだよ」
という気持ちにさせられる。
そういう意味で、座敷わらしというものの、本当の罪深さ、そして恐ろしさが、そこに潜んでいると、話を聞いたその時に、すでに感じていたのだ。
ということは、
「いい妖怪に見せかけて、これほど恐ろしい妖怪はいない」
と思わせたが、それこそ、
「天国を見せておいて、奈落の底に叩き落すというその所業にピッタリではないか?」
ということである。
つまり、座敷わらしのように、いい妖怪と思わせておいて、実は恐ろしい妖怪だというようなことは、世の中には結構あるのだろう。
子供心にそのことを思い知らされたかのように感じたのだ。
「妖怪というものが、どのようなものなのか?」
ということを、他の妖怪では、考えようともしなかった。
「摩訶不思議な魑魅魍魎を、妖怪というのだ」
と思っていたからである。
しかし、座敷わらしのように、
「妖怪なのに、人間を助けてくれる妖怪は、本当は神なのではないだろうか?」
という人がいる。
しかし、その一方で、座敷わらしのことを、神だという話は聞こえてこない。。それどころか、恐ろしい妖怪として語り継がれているものの方が、神伝説が残っていたりするではないだろうか?
そういう意味でも、座敷わらしに対して、
「最初は、いい妖怪だと思っていたのに」
という感覚があったが、実は違っていた。
「ひょっとすると、最初から、恐ろしい妖怪だ」
という感覚を、ずっと持っていたのかも知れない。
そんな風に思っていると、座敷わらしのような髪型になってきた彼女が、急に怖くなってきたのだ。
本当であれば、
「許せない」
という方が先でければおかしいのだろうが、許せないという気持ちよりも、恐怖が先になっていたのだ。
ただ、そんな恐怖を感じた自分が許せないという気持ちもあった。
「許せない」
という思いがあったのも事実で、恐ろしい思いと、許せない思いのどちらが強いかというと、正直、
「恐ろしい」
だったような気がする。
しかし、この思いを他の誰にも悟られたくないという思いから、彼女を遠ざけてしまった。その行動の意味を自分の中で、
「許せないという思いが、さらに強くなったからだろう」
と思い込ませていたからに違いない。
子供は、一つのことを思い込むと、他のことは忘れがちだ。
「子供は、まだ発展途上なので、なかなか忘れることはない」
と言われるが、その中で、唯一忘れてしまうとすれば、二つの思いが交錯し、どちらかを選ぶと、そのもう一方と、そして、二択であったということすら忘れてしまいたいという思いから、記憶を抹殺することを覚えていくのだろうと思うのだった。
記憶の抹殺は、子供であれば、スムーズに行くものだ。
「まっすぐな心が、忘れることをも簡単にさせるのではないか?」
と感じたが、果たしてそうであろうか?
その時はうまく逃げることができても、次第に理性や理屈。そして、世渡りや、精神的なコントロールができるようになってくると、せっかくのそれまでの融通を利かせるということが、難しくなってくるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「俺が、子供の頃に、都合の悪いことは記憶から抹殺してしまう」
という概念は、まんざらでもないように思えてきた。
これは、子供なら誰でも持っているものなのだが、それを表に出さないのが、
「子供の子供たるゆえんだ」
ということならば、無意識にも隠そうとするだろう。
それだけ、子供というのは、いい意味でも悪い意味でも、
「純粋だ」
ということなのだろう。
ここでの純粋は、あまりいい意味ではない。記憶から抹殺することを誰も意識しないせいで、本当に抹殺している人間が、自分を見失ってしまう可能性を秘めているからだった。他の人はいいのだろうが、その子にとっては、トラウマとして残ってしまいそうで、どうにもならないことのように感じるに違いない。
作品名:もう一人の自分の正体 作家名:森本晃次