連鎖の結末
「バブルが弾けてからこっち、社会の成り立ちが完全に変わってしまって、今では、先手先手で対応しているから、逆に伸びしろがない状態なのさ。だから、これ以上緊張してしまうと、今度は、バブルではないものが弾ける形になるので、どうなってしまうのか、想像がつかないと思うんだ」
という。
「難しいですよね?」
と鈴村がいうと、
「一つ気になることがあるんだが」
「どういうことですか?」
「あまりにも、緊張の糸が、最初からピンと張っていると、それが弾けた時というのは、いろいろなところに飛び散って、拡散する形になると思うんだ。それが一気にだったらいいのだが、いや、それもいいとは言えないが。時間差で来ると、いつ終わりがくるか分からないだろう? 終わりが来ているのに、終わったと思わず、何もできずにいたり、逆に終わりがきていないのに、終わったと思って先走ると、もっと自体を最悪にしてしまうだろう」
というではないか。
「そんなものですかね?」
と、少し他人事のようにいうと、
「そりゃあ、誰にも分からないことだからな。でも、理屈からいうとそうなんだ。第一次大戦の時を思い起こすように、その時代に注目すればするほど、まわりに向けての目がどんどん広くなってくる。膨張するといってもいいだろう。しかも、それは、限界がない。限りなく広がっていくのを思うと、今の時代にも言えることで、どこで収めればいいのかが分からないと、ちょうどいい時期を見定めることができなくなって。身動きが取れなくなる。それが、今の時代の混乱なのではないかと思うんだ」
というのであった。
上司のその言葉通りに、会社は徐々に混乱を始めた。
その原因は、世間が、騒ぎ始めたからだ。これは、鈴村も想像していたことであったが、何と言っても、
「物が入ってこない」
「物価が上がる一方で、給料は変わらない」
という状態の、ハイパーインフレに近い方氏になってきた。
しかも、
「そのうちに、戦時中のような、配給制度になるぞ」
という話であったり、
「戦争の片方の国に加担しすぎて、今度は我が国が攻め込まれる」
などという話が舞い込んでくると、国民は大混乱のパニックに陥ってしまった。
それも、これも、マスゴミが必要以上に煽るからだった。
最初は、戦争をしている国を支援するのを後押しするかのような記事ばかりで、しかも、その相手国を完全に悪者にして、世間を煽っていた。
しかも、この混乱においても、さらに不安を煽って、
「一体、国民をどのようにい洗脳しようとでもいうのか?」
といいたいほどであった。
そもそもが、政府の軽はずみな行動が引き起こしたことだった。
一つの偽善が、次の偽善を生み、偽善で偽善を覆い隠さないと、どうすることもできなくなり、
「逆マトリョーシカ」
を、悪い方に拡大させる形で、爆発したのが、今のこの混乱であった。
それこそ、
「負のスパイラル」
といってもいいのではないだろうか?
スパイラルというのは、
「螺旋階段」
という意味もあるようで、まるで、きりもみでもしているように回転しながら、どんどん落ちていくという感覚であろうか?
しかも、きりもみするということは、まわりの空気も巻き込み、吸い込んでいくという形になるので、落ちていくにしたがって、まわりに広がっていくといってもいいのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「次第に、まわりに影響がどんどん及んでいく」
という風に感じられた。
いい方に伝わっていくのであればいいのだが、今の状況の中に、一粒でも、いいというものが存在しているであろうか?
どんどん、広がっていくのは、悪い方にである。
「下に落ちていくにしたがって、逆放物線とでもいえばいいのか、広がりが激しくなる。反比例のグラフのようだ」
と感じていた。
さらに、
「爆弾によくきのこ雲の下の部分」
という、少し過激な発想も生まれた。
だが、今の世の中では、それくらいのことは、別に大したことではないほど、混乱していた。下手をすれば、一触即発の国もいくつかあるようで、それこそ、
「第三次世界大戦」
ということになりかねない。
そうなると、
「世界の滅亡も視野に入れなければいけない」
ということになる。
「第一次大戦で、塹壕戦からの、戦車や毒ガスの開発、航空機や、潜水艦の発明など、大量殺戮の基礎ができた。第二次大戦では、絨毯爆撃などの無差別爆撃、民間人の殺害などという、本当の大量殺戮に繋がり、最期には、核兵器の開発だった。今度世界大戦が起これば、今度こそ、地球の崩壊を意味するものとなる。第二次大戦で、すでに、人類は人類滅亡のパンドラの匣を開けてしまったからである」
と、鈴村は真剣に考えている。
そういう意味での今の混乱は、
「人類滅亡への序曲なのではないか?」
と考えられる。
要するに、世の中が、混乱してくることで、何が起こっても不思議ではない中で、
「負のスパイラル」
が、進行しているということであろう。
そういえば、鈴村の会社は、自社ビルというわけではなかったが、以前から、よく屋上で食事をすることが多くなった。屋上にはベンチがあり、そこで、ゆっくりと食べられるからだ。
「誰も来ないな」
と思っていたが、一つには、
「この場所を知っている人が少ないのではないか?」
ということであった。
なぜなら、雑居ビルということもあってのことであるし、エレベータも屋上まであるわけではなく、一階下で停まるのである。
屋上まで一階とはいえ、階段で上がらなければいけないのは、嫌ではないだろうか?
確かに言われてみれば、屋上まで行って、何があるというのか?
ということであったが、実際に行ってみると、思ったよりも広く、誰もいないだけに、隠れ家のような気分になれ、何よりも、一人で瞑想にふけることができるのが、嬉しかったのだ。
屋上まで行くと、最初は気づかなかったのだが、奥の方に、祠があった。そこには、何が祀ってあるのか分からないが、小さいが、真っ赤な鳥居のようなものがあった。
当然何かを祀っているのだろうが、ここは、雑居ビルである。いろいろな会社が出たり入ったりしているだろうから、会社がらみではないのかも知れない。
そんなところに、ある日、一人の老人がいたことがあった。
「おじさんは、ここのビルに入っている会社の人ですか?」
と聞いてみると、
「いいや」
と答えるではないか。
「ここに祠があるみたいなんだけど、おじさんは、どうしてここに祠があるのか、知っているの?」
と聞くと、
「ああ、ここね、以前、ここで自殺した人がいたので、その供養のためなんじゃないかな?」
というではないか?
「自殺ですか? ということは、ここから飛び降りたんでしょうか?」
と聞くと、
「そう聞いているけどね。でも、飛び降りる時の感情が、この屋上から下を見た時に感じられるんだよ。何か吸い込まれるような気がしてね」
という。
「そんな怖いこと言わないでくださいよ」
鈴村は、高所恐怖症であった。