小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

連鎖の結末

INDEX|20ページ/24ページ|

次のページ前のページ
 

 国際オリンピック委員会、IOCの言いなりになって、オリンピックを強行しようとして、国内が真っ二つに割れた。
 決まっていた聖火ランナーも、次々に辞退していき、日本のソーリは、
「安心安全のオリンピック」
 という言葉を繰り返すだけで、しかも、伝染病以外のところでも、不祥事が相次ぎ、何人の関係者が、辞任に追い込まれたことだろう。
「最初からケチのついたオリンピック」
 だったわけである。
 そんな時代に、相当な損をしてまで行うオリンピックに何の意味があるというのか、
 確かにオリンピックの精神としては、
「戦争をしている国同士でも、スポーツの祭典が行われている間は、戦争を継続させないようにする」
 というのは、その精神だった。
 確かに、近代オリンピックの精神ではあったが、世界大戦の時はそうもいかず、オリンピック中止となったのだが、戦争と同じくらい、いや、もっと大きな問題であるパンデミックの最中にオリンピックというのは、ある意味、無謀であったのではないだろうか。
 結果としては、強行に行い、競技自体は、無難に終わったのだが、オリンピックの期間というもの、感染が拡大したのも事実だった。
 そういう意味で、本当にオリンピックが成功したといえるのだろうか?
 そんなことを考えていると、冬季オリンピックが終わったと同時に始まった戦争において、
「世界が間違った方向に行っているのではないか?」
 と感じる人も少なくないのではないだろうか?
 確かに、今回の戦争は、見ようによっては、
「強国による、侵攻、侵略に見えなくもない。一方的に攻められた構図がある」
 というのは分からなくもないが、
「戦争になるには、それぞれの国に言い分があり、攻められる方も決して悪くはないと言えないのではないだろうか?」
 と考えられる。
 苛めだってそうではないか、基本的にいいことではないが、苛められる側には、それなりの理由があるのではないだろうか?
 許されることもあるだろうが、許されないこともある。
 つまり、表だけを見ていて、果たして、何が正しいのか分からないということである。
 それなのに、世界各国が、
「攻め込んだ方が、一方的に悪い。攻め込まれた方が被害者だ」
 と単純に決めつけているのが怖いのである。
 そもそも戦争というのは、宣戦布告をして、戦闘状態に入るのは、
「戦争に関わっていない第三国に、自国の立場をハッキリさせるためのものだ」
 といってもいいだろう。
 要するに、戦争をしている両国に対し。
「我が国は中立を宣言する」
 というような、どちらかの国に加勢をするか、それとも中立を宣言するかという立場をハッキリさせないといけないからだ。
 そうでないと、片方の国に加勢をするということは、反対の国とは敵対関係であり、攻撃をされても文句が言えないということになる。
 しかも、中立を宣言すると、どちらの国に対しても、戦争継続のための物資やお金を渡すことはできない。それを中立というのである。
 今回のように、あからさまに経済制裁に協力し、さらに、軍事物資や、お金を渡しているのであれば、これは相手国に対して宣戦布告をしたようなものだ。
 日本人は、平和ボケをしているのか、政府も国民も、そんなことが分かっていない。
 欧米列強に、ただ従っただけではないか。
 日本には、攻められても防戦一方でしかない。守りのための先制攻撃をしてはいけない国なのにである。
 そんなことを考えると、今の日本がしていることは、まるで、
「皇国の荒廃」
 は、完全に滅亡に向かって、迷走しているといえるのではないだろうか?
 日露戦争で掲げられたZ旗は、完全に折れているといってもいいだろう。
 こののち、日本はその相手国から、攻められないことを願うだけだ。
 奇しくも、相手が同じ国だというのは、実に皮肉なことだといえるのではないか。
 それこそ、100年の時を経て、あの時の決着がつけられようとしているのだとすれば、それは、国家の滅亡を意味しているのである。
 もっとも、暴挙に走っているのは、日本だけではなく、欧米列強である。
 いくら、核戦争を引き起こす、第三次世界大戦に発展させたくないとはいえ、経済制裁という無駄なことをして、悪戯に世界を混乱させるだけのことをして、どうなるというのか、
「経済制裁で成功することはなく、むしろ、最悪の結果をもたらすということは、歴史が証明している」
 といえるのではないだろうか?
 そんな時代に直面し、連鎖反応を起こしている街は、石橋の街や、鈴村の街だけではないだろう、
 石橋の街は、同じ会社ではなく、他の会社に対して連鎖反応を起こし。鈴村の街では、同じ会社の別部署で、連鎖反応を繰り返すのだった。ただ、共通点は、
「定期的に起こる」
 ということであった。
 その定期的な範囲は似たようなもので、2カ月に一つは連鎖で出てくるというくらいであろうか。
 2カ月というと結構長いような気がするが、稀なことが連鎖するのであるから、本来んら、
「起こるはずもない」
 と思っているようなことで、起こるとしても、
「会社にいる間に、数回あるかないかという程度だろうな」
 ということであるから、下手をすれば、10年に一度くらいの、
「忘れた頃に起こる現象だ」
 といってもいいくらいなのかも知れない。
 そんな状況を打破するのに、街では、
「占い師に頼ってみよう」
 ということになった。
 いきなり神頼みというわけではなく、いろいろ打ち合わせを行ったうえで、出るはずのない結論が話し合われた。
 まるで、
「小田原評定」
 のようではないか。
 小田原評定というと、秀吉の、
「北条征伐」
 において、籠城している側の、北条氏の家臣が、結論の出ない会議を毎日、小田原城内で繰り返されたことから、
「小田原評定」
 と言われるようになったのだ。
 今回も、小田原評定になってしまい。結論が出ないことから、却って奇抜な意見を採用するかということもあって。占い師に頼るということになった。
 あくまでも、意見ではあるが、占い師がどのような解説をするかというのも興味がある。理論詰めでくれば、それなりに説得力もあるだろう。
 昔から、
「決定できない時は、占いに頼る」
 ということで、実際に陰陽師などの、祈祷によるものが、真面目に信じられた時代があったというだけに、信憑性を、一蹴するというのは、乱暴なのではないだろうか?
 もちろん、連鎖反応が起きているのは、この二つの街だけではないのだが。
「占いに聞いてみよう」
 と考えたのが、この二つの街だった。
 そして、それぞれに代表で選ばれたのが、石橋と鈴村だったのだ。
 別に理由があったわけではない。くじ引きに近い形だったのだろうが、選ばれた理由に関しては、緘口令が敷かれた。なぜ秘密にするのか分からないが、決まった以上行くしかないのだった。
 しかも、それぞれの街が決めた占い師は、偶然にも同じところだった。
 実際に、最近ウワサニなっている、新興の占い師で、
「ただいま、売り出し中」
 といってもいいだろう。
作品名:連鎖の結末 作家名:森本晃次