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マイナスとマイナスの交わり

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 野球というスポーツ、そして、ピッチャーというものが、自分の中で、
「野球というスポーツのただの一つのポジションではなく、まるで独立したスポーツのような気がしていたのだ。そういう意味で、ピッチャーができないのなら、野球をする意味はないということで、諦めるいいきっかけになったということだった」
 好きなポジションを志し半ばでやめなければいけなくなったわけではないだけ、マシではないかと思ったが、まさにその通りだった。
 そうでなければ、趣味として、野球場に来て、スコアをつけようなどと思わないだろう。そんなことを考えながら、いつもスコアをつけていた。
「俺は決して負け犬なんかじゃないんだ」
 という気持ちからである。
 スコアをつけていると、ピッチャーの心理状態が分かってくる。
 その心理状態に。
「自分がマウンドにいたら?」
 という思いとをシンクロさせることが面白かった。
 スコアをつけながら、客観的に見ていると、これほど気楽なものはなかった。
「もし、中学の時、これくらいの余裕を持った気持ちでいられれば、気楽にプレイもできたであろうし、監督にピッチャーを任せてもらえたかも知れない」
 と感じた。
 自分でいうのも何であるが、連中の時であれば、いい球が投げられていた。まわりのクラスメイトも、
「なかなかいい球投げるじゃないか」
 と言われ、気持ちよくなっていたのも事実だし、何よりも、自分が一番納得のいく球が投げられていた。
 少し腰を沈めれば、低めに力強い球を投げることもできていたのに、マウンドに行って、バッターが立っただけで、どうしてここまで変わってくるのであろうか?
 そう思うと、
「やはり、辞めて正解だったのだろうな」
 と感じた。
 今では、あの時ほどの執着は何にしても持つことができない。裏を返せば、
「ピッチャーをやりたいと思ったあの時が、一番の自分の欲望のピークであり、それ以上何かを望むということは、もうないかも知れないな」
 と感じていた。
 それはきっと、成長期の中で、諦めという、まったく時系列に逆らうような精神状態を乗り越えることができたからではないだろうか?
 それを思うと。あの時の経験は、別に悪いものではなく、これから先の自分の生き方に、大いなる影響を与えるものだったといえるだろう。
 それが、いいことなのか悪いことなのか、三枝にはハッキリとは分からなかった。少なくとも、今まで生きていた中では分かることではなかった。きっとこれから、その答えが見えてくることもあるだろうと考えるのだった。
 ピッチャーというものに執着した時期は、実に短いものだった。
 執着した時期よりも、それを諦めるに至るまでの時期の方が結構長かったように思える。それは、時間の感覚が、いい時と悪い時で、まったく違うという発想からきているのかも知れないが、前述のように、
「まったく正反対のことでも、紙一重であったりするかも知れない」
 という思いが、今の人生でも考えさせられることになっているからだった。
 つまり、悩んでいる時は、きっと、躁鬱状態だったのかも知れない。
 まずは、鬱になって苦しんでいるところで、一定の期間が来たので、出口が見えてきた。元に戻るかと思いきや、何でもいい方に向かう躁状態へと抜けていた。
 だが、そう長く続くはずもなく、悪い方に向かってくると、またしても、鬱に迷い込んでしまった。そんなことを何度も繰り返していくうちに、
「元に戻れるのだろうか?」
 という思いが湧いてきて、まるで人生ゲームのような気持ちになっていった。
「キッチリと、止まらなければ、ゴールできずに、はみ出した分だけ戻される」
 というものである。
 せっかく、最期の橋に最初に到着していても、キチンとゴールできずに、次々後からきた連中に追いつかれて。さらにゴールされてしまう。
 まるで、わんこそばで残された人のようではないか。
 まわりから攻撃されれば、集中砲火を受けるのは必定。分かっていても、逃れることのできないこの状況を、どのように打破すればいいのか、考えさせられてしまうのだった。
「そうだ、ピッチャーをやりたいと思った時も、こんな人生ゲームのような気持ちになっていたのかも知れない」
 と感じた。
 うまく気持ちをいいところで止めようとして、プレッシャーに耐えられず、ビッタリのコールの目を引くことができない。そのことを自覚できているだけに、
「どうせ、俺にはできないんだ」
 という思いがさらに強くなり、
「負のスパイラル」
 というものを描き続け、
「気が付けば、奈落の底に堕ちていた」
 ということになってしまうのではないだろうか?
 それを思うと、スコアをつけている自分も、何者だという思いにならないとも限らなかったのだ。
 歴史の話も少し一段落し、その後、またスコアブックをつけ始めた。
「今、お話をしている時間、スコアブックを付けられなかったのではないですか?」
 と言われたが、
「大丈夫ですよ。僕は話をしながらでも、スコアブックをつけるくらいはできるんですよ。やっぱり、ずっとやっていれば、ながらでもできるようになるものですね」
 と言ったが、正直にいえば、何球かは、見逃していた。
 正直に言ってもよかったのだが、とっさにウソをついてしまったので、気にせず、そのままウソをつくことにしたのだった。
 なのに、彼女はそこにこだわってきた。
「まるで聖徳太子みたいですね。やはり集中力のたまものなのでしょうか?」
 と言われたが、
「いや、やはり慣れでしょう」
 としか答えられなかった。
 別に三枝は、聖徳太子のように、何人もの人の話を一瞬にして聞き分けることなどできはしない。そもそも、こんなものは逸話であって、実話だとは、到底思えない。
 今でこそ聖徳太子といっても、ピンとこないかも知れないが、歴史に詳しくない人でも、昭和を知っている人なら、
「あっ、一万円札の人だ」
 といって、すぐに反応するだろう。
 聖徳太子は、時代的には、飛鳥時代の人だといっていいだろう。
 彼の偉業はいくつもあり。
「憲法十七条や、冠位十二階を制定した人」
「法隆寺や国分寺を建立した人」
 などというと、それだけで、歴史の授業を思い出して、
「ああ、そうだそうだ」
 というに違いない。
 さらには、彼は、朝鮮から伝来してきた仏教を保護した。仏教寺院としての法隆寺や、国分寺はそれだけ、国の力を示すものとしての存在感もあった。
 また以外と知らない人もいるかも知れないエピソードが、遣隋使の話である。
 聖徳太子が、小野妹子を隋の国に派遣し、皇帝である煬帝に対して出したとされる高飛車な手紙も有名である。
「日出る国の天子が、日沈む国の天子に」
 という親書を託したことで、最初は。煬帝の怒りを買ったが、煬帝が、
「よほど国力に自信がなければ、これだけの手紙を書くことっはできない」
 ということで、敬意を表するようになったという。
 その際に、遣隋使が帰国する時、隋の使者が日本に同行してきたという。その時、煬帝の命を受けて、日本を観察しに来たのだろうが、法隆寺や国分寺などを見て、たいそう感心して帰っていったということだ。