マイナスとマイナスの交わり
という考え方であった。
ただ、紙一重というのも、言葉の捉え方で、一歩間違えると、
「踏みいってはいけないところに踏み入ることになるのではないかと思い、二の足を踏んでしまう」
というものであった。
そもそも、長所と短所の両方を的確に理解できている人というのが、どれだけいるだろう?
長所を伸ばそうにも、短所の方を伸ばしていたりすると、そこに違和感がないことから、その心地よさに騙されてしまうような気がするのだ。
だとすれば。短所の方が分かりやすいと思い、とにかく短所を何とかしようと思うのは、傷口を広げないという意味で、応急処置に他ならないだろう。
根本的な解決にはならないかも知れないが、長所を治すという意味での最短距離ではないかと思うのは、
「俺にとって、短所を何とかしようと思うのは、他人に向けての思いのことで、本気で長所と向き合っているのかというと、疑問にしか思えないのだった。
その時に考えるのが、ふと立ち止まって、来た道を見ると、そこに両極端に見えているように思えて仕方がないのだ。
両極端に見える場合は、漠然と見ていると、まったく見えてこないのではないdろうか?
まずは、どちらかに焦点を当てて、そちらを解決することで、片方も実は片付いていると感じることができればいいのだが、それができないことで、堂々巡りを繰り返すことになる。
それは、何かのきっかけを見つけようとして、実際には、自分が見られている位置にいることに気づいていないからだろう。
野球の試合を見ていると、同じ場面でも、立場が変われば、事情が変わってくるというのが、よく分かる。
攻めている方と守っている方で、それぞれに立場が存在するというもので、それが勝負というものをつかさどっているに違いない。
だが、実際にはそうはいかない。
「ピッチャーは、投げる時、バッターの打ちにくい場所に投げれば打たれないと分かっているが、実際には、思い切り投げこんで、空振りさせたいという思いが一番強い」
と感じるのであった。
だから、キャッチャーがいて、そのような気分を落ち着かせるという意味で、キャッチャーがサインを出してるのが、野球である。
「試合全体の指揮を執るのは監督だが、バッテリー間では、キャッチャーの意見が重要であるが、実際に投球するのはピッチャーなので、キャッチャーはピッチャーの気持ちを損なわないように扱わなければいけない」
どんなにいいボールであっても、そこにピッチャーの意思が入っていなかったり、不満を持って投げ込んだ球は、相手がビックリするくらいの棒玉になってしまうことだろう。
投げた瞬間、ピッチャーもキャッチャーも、同時に、
「しまった:
と思う。
しかし、思った瞬間、すべてが終わる。その瞬間に初めてバッテリーの意思の疎通が生まれるというのも皮肉なものだ。
打たれた瞬間、間違いなく何かを感じたはずなのに、その思いがハッキリと思い出せなくなってしまった。
それは、まだ自分がピッチャーをしたいた時で、何を感じたのか、感じたということは憶えているのだが、内容を覚えていないのだ。
つまり、
「何かトラウマが植え込まれたのだろうか?」
と感じたのだ。
そう、思いそうとすると思い出せる気がするのだ。なぜなら、細かいことを一つ一つなら思い出せるのだ。
例えば、
「打たれた瞬間、持っていかれたとは想像もしない」
その瞬間、スタンドまで運ばれたのだが、バットに当たってから、飛んでいった角度を経験から考えても、レフトフライだと思い、後ろを振り向くことすらしなかったのだ。
それなのに、打球は、外野の芝生席に弾んでいた。
「打ったバッターがバットを放り投げ、ゆっくりと走り出したのを見て、ビックリして振り返る」
何と情けない状況なのだ。
確かに、ボールが弾んでいて、レフトが、忌々しそうに、スタンドを見ている。
「ここでうな垂れるのは、実に情けないことだ」
と感じた。
相手が嬉しそうにベース一周を、まるで凱旋しているかのように、時間を掛けて回っている間、まるで、裁判所に引き出されたかのような気がした。
「この、誰にも責任を押し付けられない状況で、責任のすべてを俺に押し付けて、それで丸く収めようというのが、ありありなんだよ」
とばかりに、余裕をぶちかますかのように凱旋ランを続けている相手を見続けなければいけないのは辛いものだ。
そういえば、エラーをした選手が、その居たたまれない状況において、よく自分のグラブを触ってみている。
そんなのを見ると、
「こいつ、エラーをグラブのせいにしているじゃないか?」
と、まわりは感じて、
「無言の言い訳」
にしか見えてこないのだろうが、確かに見苦しさすら感じる。
しかし、それは、本能からの行動ではないだろうか?
野球というスポーツは誰が決めたのか、動きにパターンがある。それは、競技において必ずしなければいけないパフォーマンスではない、しなければいけないものとしては、ピッチャーだったら、脚を上げて、軸足とは逆の足を前に踏み出して、身体の反応で腕を振り、ボールを離す時に、スナップを利かせて。キャッチャーミットめがけて、投げ込むというものである。
バッターであれば、ボールのコースを判断できれば、バットを振り始めて、バットに当てて、前に飛ばそうとする行動は、
「しなければいけない」
という行動である。
だが、そうではなくて、バッターボックスに入る時、ほとんどの人が、利き腕と反対の腕でバットを回し、バッターボックスに入って。構える前に、軽くバットを、本来の軌道とは違う半円を、ベースの手前で描いたり、ベース盤をバットで叩いたりする。
ピッチャーであれば、踏み出す位置をスパイクで掘ってみたりする光景も、なぜか皆同じで、昔から変わっていない。
誰かに教えられたわけではないのに、そんな行動をとるのは、
「テレビで見ていて、プロの選手がするそういう格好に憧れを持つということが、一番の理由なのかも知れない」
そんなことを考えていると、本能にも思えるが、
「うまくなりたい」
という意識から、
「上手な人のマネをすることが、上達の近道だ」
ということなのかも知れない。
これは、子供の頃、発育状態がよく、思春期の連中には、効果的であるということから、言われてきた言葉だろう。
しかし、中には、
「他人と同じでは嫌だ」
と思う人もいて、どこまでが本当なのか、考えさせられるのであった。
ただ、他の競技のように、お互いに勝負の前にしなければいけない行動と違い、別に決まっていないのに、皆。同じようにしている。
かくいう、三枝も同じだった。野球を部活で始める前から同じだったのは、
「テレビでプロの選手がやっているのを見て、格好いいと思ったからだ」
と感じていたが、それをずっと、変なことだとは思っていなかった。
それなのに、急におかしなことだと思うようになったのは、どういうことなのだろうか?
そんな風に感じるようになったのは、野球を辞めてからだった。
野球をやらなくなって、いや、できなくなってからというもの、野球というものに、しつこいほどの嫌味な感覚を覚えていた。
作品名:マイナスとマイナスの交わり 作家名:森本晃次