マイナスとマイナスの交わり
「空中戦」
を描いていたとしても、どこかで、スコアボードに0が入れば、そこから先、急に試合が落ち付いてきたりするものだ。
しかも、それが、三者凡退などであれば、余計にそうであるが、逆に、この三者凡退に三振などが含まれていると、今度は、相手がチャンスを迎えて、得点を入れるということも、往々にしてある。
試合が落ち着いた方がいいのかどうなのかは難しいところだが、監督やスタッフとすれば、
「これ以上、点を取られないこと」
というのが、大きな目的だといえるのではないだろうか。
スコアをつけながら、三枝はそう思っていると、
「うーん、ここから先の投手交代が難しいわね」
と隣の女性が話しかけてきた。
「というと?」
と、興味津々で三枝が聞くと、
「今は、何とか、繋いできているけど、本当はいい投手をここで一度挟んでおいて、試合の流れを落ち着かせるのがいいんだろうけど、お互いに打線はすでに、ヒートアップしているので、その勢いを止めるのって難しいのよね。だから、本当はいい投手で区切ればいいんだろうと思うんだけど、もし、いい投手をここでぶつけてしまって、打たれた場合。さらにいい投球をすれば、欲が出て、次のイニングもって思うでしょう? それって危険なのよね。野球の試合って今日で終わりじゃないでしょう? 明日からもずっと続けていくわけだから、ピッチャーに無理をさせたり、精神的なプレッシャーも与えられない。かといって、その人にしか流れを止められないと思うんだったら、使うしかない。難しいところなのよね」
というのだった。
それを聞いて、
「なんて、冷静な判断力なんだ」
と感じた。
「野球の試合って、一試合に、何度かターニングポイントがあるよね? 試合そのものにもあれば、選手一人一人にもある。それを監督がうまくコントールしてあげあいといけないんだよね。プロ野球の場合は特に、ペナントレースで、ほぼ毎日試合がありますからね」
というと、彼女も、
「その通りなんですよ。だから、スコアをつけているあなただったら、そのあたりがよく分かっておられるだろうな? って思ったんです。スコアや数字から、見えていなかったその人の調子であったり、試合の流れが見えてきたりしますからね」
という。
「確かにそうですね。特にスタンドで野球を見ていると、テレビで見るように、開設者や実況が入るわけではないので、何がどうなっているのか分かりにくいところがありますよね。僕なんか、子供お頃は、野球場で、実況、解説がスピーカーから流れているものだと思っていたので、初めて野球を見に来た時は、何か物足りない気分でしたよ。それでも、よくまわりの人がいうのには、野球はやっぱり球場で見るのがいいって、言いますよね?」
というと、
「ええ、それはもちろんですね。でも、今のように、外野席で、試合そっちのけで騒ぎたいだけの人だったり、選手個人よりも試合そのものの人、逆に、試合そのものよりも、推しの選手というようないろいろな見方があるけど、スコアをつけているあなたの心境に興味が出てきて、ぜひあなたの開設をお聞きしたいなと思いましてね」
と彼女がいった。
「僕はそんな偉そうなものではないですよ」
というと、
「そんなご謙遜を」
というのだが、実際スコアをつけているのは、本当は野球など好きでもないはずなのに、それでも見に来ているということへの言い訳にしたいからだったのだ。
野球でけがをして2,3年、もっと他にできることがあったのでは? と思ったことが、野球が嫌いになった一番の理由だが、簡単に嫌いにもなれないのも事実だった。
「でも、僕も以前は野球をしていたので、試合の流れだとか、選手の気持ちは分かる気がしますね」
というと、
「そうなんですか? やっぱり、実際にやると面白い者なんでしょうね?」
と聞かれたので、
「ええ、自分が好きだったんですが、肩を壊して、できなくなりました」
と正直にいうと、
「それは残念ですね。私も、昔は陸上をしていたんですが、同じように身体を壊して、走れなくなりました。きっと、気持ちは分かると思います」
という。
それを聞いて、初めて三枝は彼女の方を振り返った
それまでは、なるべく意識をしないように、目線はグラウンドにあったが、初めて、振り返りたいと思ったのだ。彼女に興味を持ったのだろうか。
彼女の方は、あくまでもグラウンドに目が向いていて、こちらを見る素振りはない。その横顔を見ていると、
「どこかで見たような気がするんだけどな?」
と思ったが、それがいつ、どこでだったのか分からない。
「こういうのを、デジャブというんだろうか?」
と感じた。
ただ、本当に彼女を見たことがあったのかどうかは分からない。
「ひょっとすると、この角度で斜め後ろから覗いている姿に違和感がなかったからだけなのかも知れない」
と感じたからだった。
デジャブというものを今まで考えたことがなかったわけではない。何度も感じていることであったが、その都度、すぐに我に返り、
「そんなことあるはずないじゃないか?」
とばかりに、
「そんなこと」
というのが、どんなことなのかが、分からないのだった。
以前に見たということが信じられないのか?
見たことがあると思いながら、俄かに信じられないという中途半端な気持ちが信じられないのかということである。
そういう意味では野球の試合などでは、結構似たような思いがよみがえってくることがあった。
「こういう場面では、いつも打たれていたな」
などと思うと、必ず打たれている。
「ピッチャーも以心伝心で、同じことを思うのだろうか?」
と、急にボールの力がなくなってしまったことに、その時気づかされる、
何よりも打った方がビックリしている。
「普段なら手も足もでない相手が、今日に限って、打てないわけがないと思う。昔、ボールが止まって見えると言った人がいたが、まさにそんな感じなのだろうか?」
と感じたのではないだろうか。
自分にも経験がある。
いつも対戦している相手が、今まで手も足も出なかった相手なのに、簡単に打てるようになると、考えることが二つある。
「今日は、相手が調子悪いのか?」
ということと、
「今日の俺が、普段にもないくらいに、調子がいいのだろうか?」
ということで、自分の実力が上がったということまで考えることはないだろう。
それだけ自分に自信がなかったのか。それとも、謙遜心が強かったのか。どちらにしても、普段と何かが違ったりすると、余計なことを考えてしまうことが多くなってしまうようだった。
最近になって、そういうことが結構あるようで、
「何かを考える時、両極端に考えてしまいがちだ」
ということを考える。
特に最近気になっているのは、
「長所と短所について」
ということであった。
普通なら正反対のことのように思うのだが、よく言われることとして、
「長所は短所と紙一重だ」
ということであった。
これに関しては、いつも感じていることであって、感銘深く受け取っている。
だから、よく考えるのは、
「短所を治すということよりも、長所を伸ばして、そこから短所を補う」
作品名:マイナスとマイナスの交わり 作家名:森本晃次