マイナスとマイナスの交わり
正直、知り合ってすぐの相手を観察するという行為は、結構心地いいもので、精いっぱいのことを考えている頭で、
「癒し」
すら感じられるほどだった。
それなのに、相手の心を考えようとしないのは、最初から無理があったということだろう。
そのことは分かっているはずだった。
今まで、相手を最初に好きになったことのない理由は、最初に相手のことを考えすぎて、きっと、相手がしたたかな計算をしているのが、垣間見えたからだろう。
そう思うと、白けてしまい。夢から覚めてしまうのだった。冷めてきたところで相手を見ると、今度は見えてこなかったいい部分が見えてくるようになり、
「何で、俺は冷めちゃったんだろう?」
と考えてしまう。
だったら、もう一度、
「夢の中に入ってしまえばいいのではないか?」
というのだろうが、
「夢というものは、一度冷めてしまうと、同じ夢を、しかも続きから見ることは不可能なんだ」
ということも分かっているだけに、その時点で、
「この恋はもうダメだ」
と、その最後のとどめを、自分で刺してしまったことを激しく後悔するのだった。
それは、サッカーにおける、
「自殺点」
のようで、何をどう言っても、格好の悪いものである。
一番自分が、その情けなさを分かっていて、理解もしているつもりだった。
そんな時、ふと、みゆきのことを考えていた。
「あの目は、今までい見た、いろいろな目で一番怖い」
と感じたのだ。
三枝は、まだ好きにもなっていないのに、感じたこの恐怖は、
「きっと、みゆきさんのことを好きになるという予感が自分にあって、好きになった時に見た表情から感じることなのかも知れない」
と思った。
その形相は、悪魔のようで、それこそ、
「この俺を殺そうとしているのではないか?」
と思うのだった。
人はそれぞれに過去があるということは自覚していて、何がトラウマになるかも分からない。その過去をいかに恐怖として感じていて、二人の間の距離の詰め方に、最悪のバランスと、タイミングがあることで、本来であれば、
「交わることのない平行線」
を描くのだろうが、
「その平行線が、どこまで繋がっているのか、ひょっとすると、どちらかが、途中で切れてしまっているのではないか?」
と思うと、急にその平行線が、自分の手相となるような、手のひらの線のようなものに感じられた。
「切れてしまっているその線は、運命線なのだろうか?」
と考えたが、それなら、まだいいのではないか?
「まさかとは思うが、生命線だったらどうなる?」
と考えたのが、飛躍してしまって、
「この俺を殺そうとしているのではないか?」
という妄想に取りつかれた。
果たして、ただの妄想で済むのだろうか?
大団円
交わることのないものが、
「平行線」
とは、よく言われる。
確かに平行線というものは、交わることのないものだ。では、
「交わることのないものが、すべて平行線だ」
といえるのだろうか?
そのことを、三枝が考えるようになった。
要するに、
「逆も真なりなのか?」
ということである。
前述のように、交わることのないものすべてが平行線というわけではない。もちろん、
「いずれは交わるはずだ」
ということであり、交わることが確定しているわけではない。
その理由が、前述の、
「線が途中で切れていたら?」
という発想に繋がるのだ。
恋愛感情というものは、案外とそんなものなのかも知れない。
「運命の赤い糸」
などという言葉があるが、それは、最初から交わっているということが分かっているから、運命なのだ。
つまり、交わったところから考えて、
「ああ、あの時が運命だったんだ」
と顧みた時、
「運命の赤い糸というのは、本当に存在するんだ」
と考えるのである。
ゴールが存在し、そのゴールから、ここまでの自分の軌跡を顧みる。そうすることによって、
「何が正しいのか?」
ということが分かってくる。
それを、
「検証」
というのだろうが、何かがあって、そのことに対応すると、必ず必要なのが、すべてが収まった時の、回想が必要なのだ。
「ああ、あんなことがあったな」
ではなく、
「今後、このようなトラブルが起きないようにするには、どうすればいいか?」
ということを、検証するのである。
それが、事故を未然に防ぐということになり、本来、生きていくうえで、必ず必要になってくることであった。
恋愛においても、学業や、仕事においても、である。
なぜなら、
「時間は前にしか進んでいかない」
からであり、そういう意味で、時系列というのは大切なものである。
みゆきは、残念ながら、歴史の勉強をしていながら、ハッキリとこの答えに行き当たったわけではない。漠然と、理論的には分かっているのかも知れないが、理論だけで分かっていてもどうにもならないのであった。
自分で経験したことから学ぶことが大切で、今のみゆきには、その発想が逆光していて、今のままであれば、交わることはないが、究極をいえば、
「地球を一周すれば、交わることになる」
という気の遠いものである。
当然途中で寿命は終わっていて、そういう意味で、
「交わることはない」
といえるだろう。
途中で切れている発想という思いを抱いている三枝と、結果的には同じ考えになっているのだが、もちろん、そんなこと、三枝にも、みゆきにも、分かるはずのないことであった。
こんな時、急に考えたのが、
「もし、あの時、ケガをせずに野球を続けていれば、どうなっただろう?」
というものであった。
少なくとも、野球をしている時の自分だったら、
「まさか、スコアなんかつけている自分になるはずなどないだろう」
と思っていたはずだ。
できなくなったらできなくなったで、絶対に野球から遠ざかっているはずだと思っていた。たまに、ドラマなどを見ていて、身体を壊したという理由で、好きなスポーツができなくなっても、
「好きなスポーツに携わっていたい」
という理由で、マネージャーになったりする人を見たりしたが、一体何を考えているのかと思い、決してそんな人のことを、
「謙虚で偉い人だ」
とは思わないだろう。
何と言っても、自分の好きなことができなくなるのだ。好きな遊びをするには、人数が決まっていて、遅れてきた自分がその輪に入れなかったら、どうするだろう? 人が楽しんでいる姿を見て、
「ああ、楽しそうだ。今度は俺もできればいいな」
と思って、楽しんでいる人を見て、そんな単純に割り切れるだろうか?
子供だったら、その場から立ち去りたい気分になるだろう。大人になれば、どうなのか? もっと、さらに強く思うのではないか? できなくなってしまったもの。この後身体がよくなっても、決して復帰などできるはずのないもの。
もちろん、草野球のように、趣味程度のことだったらできるかも知れない。
「いや、俺はピッチャー志望で、ピッチャーができないのなら、野球をする意味はない」
と思っていたはずではないか。
「他の野手でも、野球ができればいい」
と思っている人もいるかも知れないが、
作品名:マイナスとマイナスの交わり 作家名:森本晃次