マイナスとマイナスの交わり
かといって、何も言わないと、時間だけが無駄に過ぎてしまい。結局何もできずに、シートの結果蘭には、
「達成できませんでした」
としか書くことがなくなってしまう。
しかも、その理由も書かなければいけない。
それが一番辛いのだが、まさか、
「上司が忙しそうにしているので、声を掛けられませんでした」
などと書くわけにもいかない。
それに、上司との面談で、
「どうして達成できなかったのか?」
と聞かれる時も同じで、こちらも、
「あなたが、忙しそうだったから」
などと言わるわけもないだろう。
そうなると、いかに言い訳を考えるかというのも結構大変で、変なことを書くと、
「こんなもの、上司に提出できるわけはないだろう? できなかったことでも、どこまでできたかということをよく考えて、再提出しなさい」
と言われるのだ。
つまり、この上司も、部下が達成できていないと、上司としての、才覚に欠けるということで、上司自体の指導力と、管理力のところが問われてしまい、自分の人事考課も落としてしまうことになる。
だから、部下に文句はいうが、せめて、
「目標に対して、ギリギリ達成」
というくらいまでの達成を望むのだろう。
そんなことを毎年続けていかなければならないのは、結構なプレッシャーであった。自分もそうだが、コミュニケーションが苦手で、
「報連相」
がうまくできない人は、この、
「人事考課シート」
は、最大の天敵だといってもいいだろう。
三枝は、めぐみから、
「人事考課」
されていたのだ。
そして、考課としては、最悪の点数をつけようとしていた。
しかも、これが会社だったら、
「完全なフライング」
であり、まだ、人事考課シートを渡される前から、結果が見えているようで、それこそ、
「出来レース」
の様相を呈しているといってもいいのではないだろうか?
そんな状況において、三枝も、まさか、相手がすでに評価を決定しているなど分かっているわけもなく、
「いい評価を受けたい」
と思うことから、相手の気持ちは決まっているというのに、相手の心を掴もうとする、完全に、
「相手から、後出しじゃんけんをされているようなものではないか?」
ということであった。
「出来レース自体が、後出しじゃんけんのようなもので、オーディションといっても、規模の小さなものは、同じ事務所の人気の子の、まるでおこぼれに預かるような、いわゆる、
バーターと呼ばれるもので、実は本人の実力とは一切関係のないものだったりすることが往々にしてよくある」
と言われている。
正直、そんな汚いと言われるようなことで、選ばれても、自分の実力を見失うだけで、その人にとっては、何らいいことではないのだった。
みゆきが、三枝のことを最初から嫌いだったことに、三枝は、次第に気づくようになっていた。ただ、その思いは、少し歪な形で表れてきた。
その一つとしえ、やはりみゆきのキャバクラ時代にいた、異常な男の存在が、みゆきに、おかしなトラウマを植え付けたのだ。
ストーカーまがいの行動をする男だったのだが、決して、みゆきを襲うようなことはしない。それだけわきまえているというわけではない。そもそも、わきまえていて分別のある男なら、ストーカー行為を繰り返したりはしない。
その男の意思がそこにはあるのかどうか分からないが、いつもギリギリのところで収めている。だから、彼女が振り返った時、誰かがいるのに間違いはないのだが、それが誰なのか分からない。
影だけが見えていて、その影は、みゆきを狙っているのだ。
これほどの恐怖はない。さすがに警察に相談したのも無理もないところだ。
相手は決して顔を出すことはなかった。だから余計に恐ろしさがあったのだが、一度だけ、
「これでもか」
とばかりに、一度露骨といってもいいほど、その顔を出したことがあった。
それが一番最初でも、顔を見てから、ストーカー行為が収まったわけでもない。まったく唐突に顔を見せたのだ。
「次回からは、自分だとバレてもいいという開き直りなのかな?」
と思ってが、結局顔を見たのは、その一回だけだった。
だが、その一回というのがミソで、これ以上ないというくらいの、恐怖を植え付けられた気がした。
そのおかげで、影が怖くなっていたのだ。
だから、暗い夜道を決して一人で歩こうとはしない。だから、一人暮らしを始めた時の住まい選びで最優先したのは、
「公共交通機関から、マンションまで、大通りに面していて、必ず、明るいところを通る場所」
ということだったのだ。
そのうちに、ストーカー行為は止んでいた。
どうしてなくなったのか分からなかったが、その男も店に来ることもなくなった。これは人から聞いた話だが、その問題の男は、他の女の子にストーカー行為をしていて、その時、たまたま居合わせた警官とぶつかって、御用になったのだという。
「他の人にストーキング?」
と思うと、
「私に対してのものは、何だったんだ?」
と思ったが、考えてみれば、ある意味、分かりやすい性格なのかも知れない。
つまりは、
「相手は誰でもいいから、ストーキング行為という行動に快感を覚えていたのかも知れない。相手の反応を見ることが男にとっての快感。だから、相手を決して襲おうとしなかったし、顔を見せることもなかった。だが、途中でそれだけで満足できなくなり、一度だけ、露骨に顔を見せることで、新たな快感を得るに至った。それが、この男の、段階的なストーカー行為であり、異常性癖の歪んだ現れなのではないか?」
ということではないのだろうか?
そんなことを考えていると、逆にみゆきの中で、
「その男の性癖が伝染しているのではないか?」
と思うのだった。
三枝は、今まで女性に対して感じた感情とはまったく違うものをみゆきに感じた。みゆきのことを今までであれば、すぐに好きになってもいいはずなのに、なかなか、好きになったということを自分で認めたくないところがあった。
三枝は、
「好きになったから、好かれたい」
というよりも、
「好かれたから、好きになる」
というタイプだった。
よほどの一目惚れでもない限り、好かれていることを確認し、
「確認できなければ、その人を好きになることはない」
というほどの極論を持っていた。
だから、感情よりも頭で理解する方が、その人を好きになるタイミング的に、かなり遅れてくるというものだった。
だから、三枝は、余計に慎重になり、なかなか好きだという実感が湧いてこない。
それまで、これもいつものことだが、相手を好きになるという時まで、三枝は自分のことで精いっぱいだ。相手の女性が自分のことをどう思っているか? それも、
「好きか、好きではないか?」
ということの二択である。
つまり、
「嫌い」
というワードはそこには入っていないのだ。
ということは、自分のことを嫌いだと思っていて、早急に結論を出そうとして黙っているみゆきのことは、一切頭に入ってこない。
普通であれば、これから恋愛対象として見ようと思っている人であれば、いくら自分のことで精いっぱいだったとしても、もう少し、観察するものだ。
作品名:マイナスとマイナスの交わり 作家名:森本晃次