マイナスとマイナスの交わり
と感じることで、もっといろいろ勉強もできるし、勉強したことが、知識を得るだけではなく、今まで知り合うことのできなかった人と知り合えるようになる。
それは、意識していなくても、自分の中にあるものが、人を引き寄せるという感覚になるというのか、人と知り合うことが、勉強に繋がるというのか、それぞれを切り離して考えられないようになってくると、何が楽しいのか分かってくるような気がする。
確かに、
「楽しいということに、理由なんかいらない」
といえるのかも知れないが、その楽しいということを、自分から知りたいと思えるようになることが大切なのではないだろうか?
そのことを教えてくれたのが、キャバクラでのバイトだった。
実際に好きになりそうな人もいたが、その時のみゆきにとって、
「恋愛が一番ではない」
という思いがあり、つまり、恋愛というものを、
「最終目標」
にしてしまうと、達成された時、腑抜けのようになってしまい、永遠に賢者モードから抜けられなくなってしまうと、考えるのだった。
目標を持つのは確かにいいことだ。目標に向かってしっかりとした足場ができ、経過を客観的に見ながら進むことができるので、達成感がハンパないところまでくることだろう。
しかし、実際に、達成してしまうと、それまでに、達成した後のことを考えておかないと、本当に腑抜けになってしまう。
「目標は達成するためにあるものだが、達成するだけが、目標ではない」
という話を聞いたことがあったが、理屈としては分かっているつもりではいたが、実際には、
「目標を達成してしまうということは、見失ってしまった時と同じ効果がある」
ということだ。
一つの目標を、半永久的なものにしていればいいが、そうしていると、実際の達成感を味わうことのない人生になってしまう。
かといって、達成してしまったその瞬間に、死が訪れたというのであれば、いいタイミングだといえるかも知れないが、せっかくの達成感を味わうことなく、この世をおさらばすることになると考えると、一番いいタイミングというのは、
「究極のタイミング」
でしかないのだった。
そんな達成できるかできないか分からないタイミングで、最高の達成感を味わうというのはどういうことだろう?
達成感を充実した瞬間に死を迎えるということが最高なのだろうが、それこそそんな都合のいいことは、自殺でもない限りありえない。
しかも、自殺では意味がないのだ。
自ら死を選ぶのであれば、
「達成するということは、死を選ぶことありきになってしまい、せっかくの達成感を、自らの命を奪うということで叶ったとして、それが果たして幸せだといえるのだろうか?」
と考えさせられる。
それでは、完全に、
「人間は死ぬために生きている」
ということになり、感情を出さずに客観的に考えると、究極、そういうことになるのであろう。
ということは、少しでも感情があれば、
「生きることと死ぬことを同じ土俵で考えてはいけない」
ということに気づく。
そしてそれが当たり前のことだとして、自分の考えが、成就せれることになるのだろう。
そんな目標を、
「何のために設定して、どうして達成させようというのか?」
と、もし他人に聞いたとすれば、
「そりゃあ、生きがいにもなるし、仕事や、家庭を持つなどという、社会生活をする上で、絶対に必要なものを継続させていく時、その指針となるものがなければ、挫折したり、見失ったりするからなんじゃないかな?」
と、いうだろう。
確かにその通りであり、それ以上の模範解答はないだろう。
ただ、
「それだけなのだろうか?」
と聞かれた時、果たして、何と答えるというのだろうか?
それを思えば、目標、そして、それを達成させることというのは、結構大変なことである。
最近は、ほとんどの企業で、目標のための、人事考課シートのようなものを提出されるところが多い。
それを半期、つまり、半年間の目標として、営業であれば、数字的なもの、管理部であれば、刑事節減であったり、会社の体制改善などの目標を持って仕事をしているので、それを個人ごとに設定し、役職の階級ごとに、内容が異なった人事考課になったりするのだろう。
それを上司が見て、点数をつけるということになるのだろうが、目標設定にも、結果報告にも、上司との面接があり、そこで、その人の目標や評価が決定される。
最終的には、上司から、取締役からそれを査定し、それが、次回の賞与や、昇給に影響してくるというわけだ。
要するに、
「人から言われて、仕事をこなすのは当たり前であり、平社員であっても、会社に貢献するものを考えて、自ら行動に起こせるような人間でないといけない」
ということになるのだろう。
昭和の時代のように、
「終身雇用」
であったり、
「年功序列」
というものはない。
今の時代に沿った形で、コンプライアンスにはかなり厳しくなり、さらには、個人情報保護の問題も大きいことから、仕事がやりやすくなった人、やりにくくなった人に、ハッキリと別れることだろう。
平成に入った時くらいに、バブル掲載に浮かれていた世の中が、弾けてしまうと、一気に立場が、一気に、天から奈落の底に堕ちることだってあったのだ。
特に、バブルの時期の就活というと、完全に、
「売り手市場」
であった。
面接に行けば、少しでも成績がよかったり、体育会系の部活をしていたなどというだけで、企業は、他に行かれないように、
「抱え込み」
のようなことをする。
内定を出した後、
「入社前研修ということで、海外旅行に連れていったり、親睦会ということで、宴会をもよおしてくれたり」
そんな優遇を受けて、ちやほやされる形で入社してきたものだ。
しかし、今度はバブルが弾けて、リストラの嵐が吹いてくると、リストラ候補として、最前線に出されるのは、その時に過剰なくらいに雇った入社、3、4年目くらいの社員たちであった。
いきなり、許容できない部署への転属を命じられたり、出向させられたり、左遷ぎみの異動などが、横行してくるのだ。
そうなってくると、ほとんど、会社を辞めなければならないところに追い込まれたようだ。
甘んじて受けた辞令であっても、今度はそんな部署でも、窓際に追いやられてしまうと、さすがに、忍耐で会社に残ろうと思っていた人でも、嫌になるのは必定である。
「仕事なんか、もう嫌だ」
という精神疾患というおまけつきで、会社から放り出される。
そんな社会の目の当たりにしていた人間は、相当強くなったことだろう。
目標達成において、一体何をすればいいのか、
「上司と相談して、仕事をする」
ということになっているが、上司は上司で忙しい。
下手に声を掛けたりすると、
「今、忙しい!」
と言われて、仕事の邪魔をしているかのようになってしまう。
そうなってしまうと、決まずくもなるし、余計なプレッシャーを感じることになってしまって、できるはずの従来の仕事にまで影響してしまうことになりかねない。
それは避けなければいけない。
作品名:マイナスとマイナスの交わり 作家名:森本晃次