マイナスとマイナスの交わり
グイグイとはいくのだが、実際に推しているように見えているのは、それだけ相手に対しての第一印象が自分にとって深かったということで、最初に感じるのは、
「失いたくない」
という思いなのではないだろうか?
失いたくないと思っている思いが、そのままつき合うという気持ちになる頃になっても、薄れてこない限り、つまりは、現状維持か、増してきているということの場合は、問題ないのだが、実際につき合おうかとうか考えた時、記憶の薄れがあった時、失いたくないと思ったことを言い訳にして、最初にグイグイいった自分の心境を、正当化したかったということになるのであろう。
そのことを分かってきたのは、最近になってからのことだった。
そして自分が、それまでどうして男性と長続きをしなかったのかということを、
「男女の恋愛に関しての考え方の相違」
という風に感じるようになったのだが、自分の考え方が、女性の中でもかなり特殊だということに気づかなかった。
なぜなら、他の人のほとんどが、恋愛に対して、つまりは、恋愛の始まりの部分を、ここまで分析して考えるということがないからだ。普通に、別れるということを考えた時、別れを感じたその瞬間をターニングポイントとして、近くから、だんだん円を描くように、まわりに向かって、放物線のような正確さで、広がっていくのではないだろうか?
恋愛感情を始まりから考えるというやり方は、みゆき独特のもので、それは歴史をさかのぼるのではなく、古代から掘り下げていく時系列重視で勉強していくからだろう。
歴史が嫌いだったり、苦手だったりする人の多くは、そのあたりの時系列に則った考え方についていけないからなのかも知れない。
そもそも、歴史を時系列に沿って教えるというのは、誰が考えたことなのだろう。近くから遠くに向かって見ていく方が分かりやすいと思うのは、みゆきだけだろうか?
実際には、そんなことはないだろう。だからこそ、ついてこれずに、
「歴史が嫌いだ」
という生徒が多くなる。
確かに昔から、歴史というと、
「暗記物だから、嫌いだ。覚えられない」
という人が多かった。
特に女性の方がその傾向が強く言われてきたような気がする。というよりも、女性がそれを言い訳にして、苦手なことを正当化していたように思っている人も少なくはない気がする。
今の時代でこそ、
「教科書には載っていない歴史」
などという言い方をして、いろいろな著書が出ていることから、歴史に馴染みを持つ女性も増えて、
「歴女」
などというものも出てきたではないか。
ただ、馴染みの薄い学問であることは、間違いのないことだ。今ではこんなに女性も受け入れられる人が増えてはきたが、相変わらず敷居が高い人も少なくはない。それは、やはり見えないところに、歴史を苦手とする秘密が隠されていると思うと、この時系列での強引な教育にあると考えるのは、無理なことなのだろうか?
そんなことを考えていると、自分も、中学時代までは歴史が苦手だったのを思い出すのであった。
嫌われるということ
そんなみゆきは、高校生になってから、男性を異性として意識するようになった。かなりの晩生の方だった。
女性というのは、男性よりも、基本的には発育が早いと言われていて、実際に、肉体的な発育は結構早い方ではなかっただろうか?
中学に入った頃には、胸の膨らみも結構なもので、男性の視線が痛かった。
それは、クラスメイトの同年代による視線ではなく、学校の先生であったり、歩いている時の大人の男たちの視線だったりするのだ。
「そんなに痛い視線を浴びせることなどないのに」
と思っていたが、中学の頃は、半分その視線に対して、注目を浴びているということで、悦びを感じることもあったのだ。
まるで、女王様にでもなったかのような気持ちだったが、その気持ちを感じた時、我に返ると、その感覚が自己嫌悪に陥らせることがあり、そんな時、
「私って、二重人格だったのかしら?」
と考えさせられたりするのだった。
二重人格という言葉は知っていたが、どんな状況になった時、二重人格というのかということを知らなかったので、我に返ったその時に、まったく違うことを考えるような場合に、
「それを二重人格だというんだ」
と思い込んでいた。
確かに、そんな場合も二重人格というのかも知れないが、二重人格にもいくつかのパターンがあり、そのすべてが、二重人格だといえるものだとは限らなかったりする。
その時は、自分の思い込みであって、他の人に話すと、自分が恥ずかしい思いをするということになるのかも知れないが、実際に二重人格というものを言葉の意味から考えた時、最初に浮かんでくるのは、ほとんどの人がそうであるように、
「ジキルとハイド」
の話になるであろう。
それを思うと、ジキルとハイドという話を、作者がどのような思いで書いたのか、聞いてみたいと思うのだった。
話の中にあるように、自分の身体の中に、二つの人格が宿っていると思ったのか、それとも、ずっと感じてきたが、その正体が分からず形になっていなかったことから、作者自身が、話として思い浮かべたものを小説という形に作り上げたことで生まれた作品だったのかも知れない。
逆にいうと、二重人格というのは、
「どんでん返しのようなものだ」
ともいえるのではないか?
「どんでん返し」
というと、
「忍者屋敷の扉のからくり」
とも表現される。
敵が攻めてきた時に逃れるために、床の間などに隠し扉があり、上から垂れ下がった紐を下から引っ張るような形で、ひっくり返るというからくりで、その扉から中に入り、入ってしまい、そこを抜けると、また元のような扉になるという仕掛けである。
回転扉のようなもので、扉の中心部に要のようなものがあり、上からみると、ホテルなどにある、グルグル回って人が入っていく、回転扉のような仕掛けになっている。裏と表で同じ模様を書いていれば、そこから抜けたとしても、誰にも分からないだろう。
それが、どんでん返しの仕掛けであるが、同じ絵であっても、表と裏がそれぞれ存在している以上、表裏が同時に表に出てくるということはありえないということである。
裏と表が、同時に表に出てこないということを前提に考えるから、表が裏になった時、悟られないようにした場合のことを、
「どんでん返し」
というのだ。
元来相手を脅かせるための技法ではない。逆に相手に悟られてしまうと、それは、からくり扉のように、、主目的が敵の襲来から逃げるということから離れてしまい、追及をゆるしてしまうことになる。
「本末転倒も甚だしい」
といえるのではないだろうか。
だから、敵の追求から逃れることができれば、逃げた後、表が裏になっていようが、実は関係なのだ。それは恋愛にも言えることではないだろうか?
みゆきのように、最初に自分の中である程度相手を見切ってしまい、
「この人ではダメだ」
と思うと、すでに自分の中で覚悟を決め手しまう。
その時はまだ、相手は、こちらのことを好きになるかどうかというところまで行っていないのだ。
しかし、
作品名:マイナスとマイナスの交わり 作家名:森本晃次