マイナスとマイナスの交わり
しかし、子供はそんなことは分からない。自分が最初に出会って、あのつぶらな瞳で見つめられれば、子供であれば、黙っておくことはできないだろう。
それなのに、どうして親には、醜くて汚いものにしか見えないのか。そして、どうしてあんなに頑なに、汚物でも見るような目で見ることができるのか、理解できるはずがなかった。
子供心に、
「大人になったら、あんな風になるということであれば、僕は大人になんかなりたくなどない」
と思うことだろう。
大人というのは、そういうもので、子供との間に、見ることのできない結界があるということだろう。
「親の心が子供に分からないのは仕方がないが、子供の心を親が分からないという道理はない」
ということは、子供にもわかる。
しかし、なぜ大人になると忘れてしまうのかということがどうしても分からなかった。
「忘れているわけではないけど、親という責任上、苦渋の選択をするのだろうか?」
と考えたが、それにしては、あの感情むき出しの態度はないだろう。
子供がどう感じるかということを考えていれば、あんなヒステリックになるはずなんかないんだ。
と思うと、本当に、大人になると、子供の頃のことを忘れてしまうのかも知れない。
ただ、その理由は、
「時間の経過」
ということで片付けていいものだろうか?
やはり、大人と子供の間には結界のようなものがあり、子供は親に感情的に起こられたことに対して、ショックが大きければ、そのままトラウマとなって残ってしまいそうな状況に、
「記憶が薄れていく」
ということになるのだろうか?
それにしても、なぜ、みゆきが、こんなに早く三枝のことが分かったというのだろう?
そもそも、それは勘というものであって、本当に合っていることなのかも分からない。
「ほぼ、間違っているだろう?」
と、考えた本人であるみゆきがそう思っているのではないだろうか?
ただ、その思いの中に、
「他の記憶が薄れてきて、ふと目の前にあることは、信憑性が高い」
という思いがあることから、この勘も、
「そこまで見当違いなことを考えているようには思えない」
ということであった。
薄れていく記憶の中に、何か真実が隠されているのだろうか? たったさっきまで覚えていたものが消えかかっていくのに気づいた時、もうどうにもならないことは分かっている。
子供の頃に見た特撮映画のシーンを思い出したのだが、あれは、宇宙人が空中に、
「疑似空間」
なるものを生み出す宇宙人がいて、その宇宙人が正義のヒーローにやられた時、疑似空間も、どんどん消えていくというシーンがあったが、それを見た時、結構な違和感があった。
疑似空間は、大きな森があって、その森の中に底なし沼があるのだが、その沼が、消えていく時、陸地が消えていくのに、水がそのまま空間に浮いているのだ。それを見た時、子供心に、
「どうして、水が流れ落ちるようなことはないのだろうか?」
と感じたものだった。
そもそもが、
「疑似空間」
なのだから、水だけが、重力に負けて落ちていくというのもおかしなものなのだが、普通に理屈で考えるから、違和感があるのだろう。つまりは、
「自分は、この世界の理屈を、すべて正しいとして、その基準で、物事を、自分の物差しで測っているにすぎない」
ということになるのだろう。
そして、自分の、この、
「薄れていく記憶」
というものと、子供の頃に見た特撮映画の、
「疑似空間」
という感覚がシンクロしたのだった。
それは、まるで、
「別の次元のベクトル」
が、まるでパラレルワールドにおける、
「もう一人の自分の存在」
のように、同じベクトルで繋がっているということのようにしか、思えないのであった。
そんな記憶が薄れていく中に、
「まるで、人柱のような、何かの生贄というものが必要なのではないだろうか?」
という思いがあったのだ。
人柱とは、何かの建築物を建てるのに、今でいう地鎮祭、つまり、地面の神の怒りを鎮め、これから建てる建築物を永遠に平和ならしめる、穏やかさを持続させるという意味での、
「生贄」
であった。
「薄れていく記憶の保証を、まるで担保しているかのようだ」
と思えた。
「記憶は薄れていくだけで、決してなくなるものではない」
を、保証し、担保してもらえるもの。
それが何なのか、何しろ生贄なのだから、相当なものだろう。
ひょっとすると、神に自分の人生、運命をゆだねるという、人柱よりも、もっとすごい契約が結ばれているのかも知れない。
そもそも、人の犠牲を、何も関係のない他人に負わせることをするというのか、考え方が間違っていると、誰も進言する人がいないということで、それだけ、自然の猛威は、人間ではどうにもなるものではないのだろう。
人柱というのは、いかにも大げさではあるが、それくらいの思いがあるということである。
他の記憶が薄れてきた、その内容は、かつての自分がつき合った男性たちということであろうか?
「記憶は薄れては言っているんだけど、消えているわけではないんだよな」
という感覚だった。
そこが、前述の、
「疑似空間の中の沼の水」
とは違うものであって、違和感があったとすれば、その疑似空間が消えていく中で、何に違和感があったのかというと、
「それは順番なのではないか?」
と思わせたところだ。
かつて、付き合っていた男性たちの記憶の順番とは何なのだろう?
そもそも、順番というのは、
「意識の中における、時系列ということなのか?」
それとも、
「付き合った人たちとの出会いの時系列ということなのか?」
のどちらであろう?
今まで付き合ってきた男性と、ほとんど長続きをしたことはなかった。長い時でも、数か月、最高で五カ月くらいがいいところではなかったか?
下手をすれば、
「付き合った」
という中に入れてはいけないくらいの人もいたことだろう。
今まで付き合ったという意識としては、
「5,6人くらいではないか?」」
と思っている中で、実際に親友がカウントできる人数として、
「何言ってるの。3人がいいところよ。その3人以外とは、一か月ももっていないじゃない。それでつき合ったって言ったりすると、相手に気の毒よ。ひょっとすると、相手の人たちは、あなたと一緒にいた時期を、黒歴史だって思っているかも知れないくらいなんじゃないかしら?」
と、辛辣に言われた。
しかし、実際には、辛辣だと思っているのは相手かも知れない。
別れた(と本人は思っているが)相手が、みゆきのことをどう思っていたのか、きっと、じっくりと知り合って、何度目かのデートで、やっと、
「付き合っている」
という感覚になっているのではないだろうか?
男性というのは、好きな相手に対して、確かに最初はグイグイと行くかも知れないが、それは様子を見ているのであって、最初から計算ずくというわけではない。何度かデートを重ねるようになって、そこから計算が生まれてくるのではないだろうか?
そこには、男性なりの、伏線というか、言い訳のようなものがあるのかも知れない。
作品名:マイナスとマイナスの交わり 作家名:森本晃次