マイナスとマイナスの交わり
というのは、
「世の中には三人はいる」
と言われる、
「似て非なる者」
ではなく、本当の自分なのだ。
それを、
「ドッペルゲンガー」
と表現するのだ。
ドッペルゲンガーというのは、特徴があるようだ。
「絶対に口を利かない」
だとか、
「実際の自分の行動範囲以外には現れることはない」
などである。
そして、一番怖いこととして、
「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死んでしまう」
ということであった。
しかも、それが一番信憑性のあることで、世界の著名人が、ドッペルゲンガーによって死んでいるという。
一番の例としては、芥川龍之介と、リンカーンではないだろうか?
このリンカーンなどは、自分が殺されるのを予知していたと言われる。芥川龍之介の場合は、破って捨てたはずの原稿が、元に戻って机の上に置かれていたという怪談めいた話が残っているのだった。
孤立してくるのも怖いのだが、その理由の一つに、
「ドッペルゲンガーの出現する状況を、自らで作り出しているのではないか?」
ということであった。
孤立している中の自分は、まるで魂が抜けたように見える時があるという。その時、自分の中にいるもう一人の自分が表に出ているのではないだろうか?
この発想は、
「ジキル博士とハイド氏」
の話のような気がしてきて、同一人物でありながら、まわりが見て、誰も気づかないというほどの別人になっているということであろう。
あの話は、あくまでも架空のお話であるが、実際にあったことだと考えれば、そこにドッペルゲンガーが絡んでいるのかも知れないと思うのだった。
会社にいると、仕事をしている時と、ふいに意識が飛んでしまった時、急に記憶が薄れてくることがあった。
「あれ? 今何を考えていたんだろう?」
と考える時、ドッペルゲンガーのようにもう一人の自分がいて。その自分が、記憶を都合よく操作しようとするのではないだろうか?
ドッペルゲンガーというのは、ジキルとハイドのように、どちらかが表に出ている時は、もう一人の人格は完全に隠れているものだ。
ジキル博士だって、最初は、自分の中に本当にハイド氏が入り込んでしまっていることが分かっていなかったのではないかとも思える、自分で開発した薬に、半信半疑だったのだろう。
確かに、ジキルとハイドというのは、極端な「物語であるが、物語としてみれば、これほど、逆にリアルなものはないだろう、
リアルというのは、何も現実に近いということだけではない。
現実に近く見せるというのも、その想像力が、現実よりも現実っぽいこともあるだろう。
「事実は小説よりも奇なり」
というが、まさにその通りなのかも知れない。
疑心暗鬼に感じること自体、自分の中に、もう一人の自分がいるという証拠なのかも知れない。
だから、急に記憶が飛んでしまうことになるんだろう。
「何か重大なことを考えていたはずなのに」
と思えば思うほど、堂々巡りを繰り返して、逃れられなくなる。それを、
「負のスパイラル」
というのではないだろうか?
スパイラルというのは、螺旋階段という意味で、
「ループしながら落ちていく」
ということで、実際に堕ちているということを意識できていないのかも知れない。
それを考えると、ループするのは、底なし沼に嵌っていく時に陥るものではないかと思う。
それこそ地獄というものなのだろう。
会社で出世するということは、どういうことになるのだろう? 小説やドラマなどでは、出世することで、給料が上がり、部下もできて、いいことばかりに見えるではないか?
だが、実際には、下から突き上げられ、上からは部下の指導がなっていないなどと責められる。いわゆる板挟みになってしまうのだ。
要するに、ジレンマに陥るとはこのことである。
主任くらいであれば、そこまではないのだろうが、実際には、それまで第一線で仕事をしていることで、うまく行けば上から褒められて、うまく行かなくても、主任が責任を取ってくれると思うのだ。
しかし、自分が今度はその主任になるのだ。今までは、
「しょせん怒られ役は他人事だ」
と思っていただけに、自分が今度はその役になるのだから、それこそ、自分が、まな板の上に載せられた鯉のようではないか?
出世欲というのがないわけではない。欲がなければ、仕事をしていても、何よりも楽しくない。
仕事をするというのは、お金のこともあるが、それだけではない。満足をするのも、仕事をする意義なのだ。
上司からは、
「自己満足ではダメだ」
などと言われるが、自己満足の何が悪いというのか、
「自分で満足もできない人間に、人を満足などさせられるはずもない」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、仕事と、会社を切り離して考えるという考え方があっていいと思うのだった。
会社のために仕事をするというよりも、自分のために、仕事があるのだから、仕事をするということは、自分のためだと思えば、気も楽になるし、仕事をすることで得られる金銭も、新鮮に感じられるのではないだろうか?
仕事だけが会社ではないのと同じで、会社だけが仕事でもないといえるのではないだろうか?
会社に勤めるということは、そういうことなのだ。平社員のうちに、そのあたりを理解していれば、上司になっても、うまくやっていけるのではないだろうか?
そんな中で、記憶が薄れてくるのをまた感じた。薄れてくるというのはなく、
「覚えていたことを、急に忘れてしまう」
という感じである。
「今の今まで覚えていたのに、俺は何をしようとしたのだろう?」
という思いであった。
きっと、野球を見ながら、みゆきさんと話をしていると、話が途中で飛躍していくことで、自分の中で何を話していたのか分からなくなってしまっているのではないだろうか?
彼女と話をしたいという思いも当然ある中で、スコアブックをつけるのに。邪魔にあっている気がして、複雑な気分になるのだ。
スコアブックをつけることが、自分の中の保守的な部分で、彼女と話をしたいと思うのは。自分の中での革新的な部分だとすれば、もし、自分の中にドッペルゲンガーがいるとすれば、それは、
「姿形が似ているだけで、中身はまったく違っているものではないか」
というものだと思うのだった。
だとすると、自分の中にいるものは、本当にドッペルゲンガーなのであろうか?
ドッペルゲンガーというと、
「まったく同じ人間」
でないといけないのだろう。
潜んでいる人間が、ジキル博士なのか、ハイド氏なのか、まったく違っているのだとすれば、それは、ドッペルゲンガーなどではなく、二重人格の片方だということになる。
しかも、それは、表に出ている自分の両極端な部分だとすると、よほど親しい相手でなければ、これが同一人物だとは思わないだろう。
まるで、満月を見て、オオカミに変身してしまい、
「オオカミ男」
のようではないか?
つまり、本当であれば、自分の中にまったく同じ人間が潜んでいるわけはない。しかも、同じ次元の同じ時間で存在してはいけないのだとすれば、ドッペルゲンガーの存在はありえないということになる。
それが、
作品名:マイナスとマイナスの交わり 作家名:森本晃次