マイナスとマイナスの交わり
といえば、罪になるものではなく、あくまでも、
「被害者の告訴」
が必要だったのだ。
なぜだったのかは分からないが、今では、親告罪というのは、強姦罪などの場合では法律改正によってなくなってきてはいるが、以前は、必要だったのだ。
考えられることとしては、
「示談が成立することが多かったからではないか?」
と思われるが、それもおかしな話である。
示談が多かったのは、加害者側の弁護士が被害者側のところにやってきて、
「裁判になれば、女性が襲われたことを公表するようなものだとか、裁判に勝っても、大した罪にならない」
などといって、裁判を起こすことのデメリットを説明し、相手に泣き寝入りさせてきたのがほとんどだ。
大金を掴ませるくらいのことは平気でやっただろう。確かに女性側とすれば、裁判になって、さらし者にされるのは、本意ではないだろう。
そういう意味でいえば、親告罪というのは、
「被害者のプライバシーを守るためだった」
ということなのかも知れない。
それを考えると、
「どっちがいいのか?」
ということになる。
感情的に考えると、親告罪なのは、おかしいとなるのだろうが、冷静に考えると、隠しておきたいことを公表されるのは困るというものだ。
しかし、今、親告罪ではなくなったというのは、逆に、個人情報保護法で、個人情報であったり、プライバシーが守られているということが、前提としてあるのかも知れない。
それを思うと、法律もめまぐるしく改正されていくが、一つのことの派生として、いろいろ変わっていっているのを考えると、それも致し方ないというのか、いい方に変わっているのであれば、それはそれでいいことになるのであろう。
ストーカー問題は、逆に個人情報やプライバシーという意味で、却って障害になる場合もある。
「どこまでが許されて、どこからがアウトなのか?」
そのあたりを見極める必要があるに違いない。
自分にとって、最近の会社での立ち位置は、微妙なものだった。年齢的にも、そろそろ主任という肩書がついてもいいくらいになっているので、それまで第一線でやっていたことを、後輩に伝授したり、後輩をうまく使って仕事をするというのを覚えなければいけない。
ただ、今まで自分たちが一番の下っ端の時は、結構、直属の上司である、主任のことを、影でいろいろウワサしたいたりしたものだ。
他愛もないものも多いが、中には、辛辣なものもある。
「あの人、他の部署の女の子と不倫しているようだぞ」
などというウワサを立てられていたくらいだ。
「そんなことをするような人には見えないけどな」
と、半分本気で、そういってみたのだが、ウワサをする連中というのは、ウワサを流すだけが目的で、一切の回収も、責任も負うことはない。
「そんなの分からないさ。この間一緒にいて、何かもめているのを見たからな」
と、本当は仕事のことなのかも知れないのに、何も疑うことなく、そう思えばあとは猪突猛進なところが、実に無責任といってもいいだろう。
そんな状態において、ウワサを流した張本人は、実際の仕事でも、まともにできたためしがない。
「やる気がない」
と言えないいのか、絶えず、言い訳を考えている方であった。
自分から見れば、
「そんな言い訳ばっかり考える暇があったら、言い訳をしないようにするにはどうすればいいかということを考えればいいのに」
と思うのだ。
たぶん、あの男はそれができないのだろう。できるくらいならやっている。できないから、皆自分と同じだという目でまわりを見る。自分にできないことを他の人ができるはずなどないと思うくせに、実際の仕事になると、人に丸投げするのだ。
そして、丸投げされたやつが、ちゃんとした仕事をして、それを上司から、
「今度からお前に頼むことにしよう」
と言われているのを聞いて、腹を立てているのだ。
何とも、見ている方が腹立たしく思えるような、そんな男の存在に、歯ぎしりをいないではおれない気分になるのは、嫌なものだ。
だから、
「あんな部下が一人でもいれば、俺なんて何を言われるか?」
と思って恐ろしくなっていた。
もちろん、そんなウワサを流していたやつは、会社の中でも異端児なのかも知れない。
しかし、その異端児というのは、誰かが言っていたが、
「ゴキブリと一緒なのさ」
というので、
「どういうことなんだい?」
と聞くと、
「ほら、一匹見れば、十匹はいると考えればいいって聞いたことがあるだろう? あれと一緒で、ゴキブリというのは、次から次に湧いてくるものさ。もし、死んだとしても、さらに奥にはたくさんいるのさ。虱を潰す気にならないと、退治できないということさ」
というではないか。
「まさに、しらみつぶしだな」
というと、
「そういうことだ」
といって、そいつはにやりと笑ったが、
「こっちは、笑い事で会ない」
といいたいくらいだった。
そんな奴がいっぱいいると思うと、これほど気持ち悪いことはない。だから、役職が付けばつくほど、何か悪い方に向かっているような気がして嫌だった。
特に、会社での自分のまわりには、この考えに賛同する人も多く、
「出世するとさ。上からは抑えつけられ、下からはつるし上げられるのさ。まるで、万力に挟まれるようなものじゃないか」
といっているやつもいた。
といっても、これも、先ほどのゴキブリの話をしたのと同一人物で、どうにも、この男とは腐れ縁のようで、
「逃れられないのかな?」
と思えてならなかったのだ。
そんな会社にいると、一人の時間が、とても貴重になってきた。
かといって、最近は、ずっと一人でいるので、孤独感が満載になってきた。
普通の孤独感くらいであればいいのだが、それはあくまでも、自分が感じていることなだけだからなのだが、そのうちに、
「孤立してきた」
と思うようになると、結構精神的にきつくなってくるのを感じるのだった。
孤立してくるというのは、
「まわりから見ていて、孤立しているように見える」
ということで、これは主観的に見ているわけではないので、寂しさがこみあげてくるのだ。
最初こそ、
「自分のことではないわな」
と思っているのだが、そうでもないようだ。
自分のことを客観的に見ると、とても冷静に見ることができる。これはいいことではあるのだが、鬱状態へのトリガーになってしまいそうな気がする。冷静に自分のことを見るということは、それだけ、裏も見ようとするからで、
「長所と短所は背中合わせ」
ということを考えると、見えているのが、どっちなのかを考えて、もし、それが長所の方だったら、さらに悪いことが潜んでいると思うと、恐ろしくなる。だから、冷静になって、客観的に見ている自分が怖くなるのだった。
そんな時に限って、見えているのは長所なのだ。だから、潜んでいる短所がどのようなものかと想像するだけで、吐き気を催してくる。さらに、こんなことを考えてしまった冷静な自分が怖くて仕方がない。
「自分であって、自分ではない」
と思いたい一心から、まるで、
「もう一人の自分」
という存在に気づかされた気がするのだった。
「もう一人の自分」
作品名:マイナスとマイナスの交わり 作家名:森本晃次