秘密は墓場まで
時間的に11時前くらいということなので、街に買い物に出かける人なのかも知れない。何と言っても、これくらいの時間帯に電車に乗る人は想像ができないので、逆にいろいろと考えてみるのも楽しい気がした。
「だけど、そういう意味でいけば、他の人たちから見れば、私だって、異様に感じられるのかも知れないな」
と、つぐみは感じていた。
そして、もう一つ感じたのは、
「若い人たち、二十歳前後の人たちも多いかな?」
というものであった。
ここに関してはある程度予測できたことだった。むしろ、
「この年齢層の人たちばかりなのだろう」
と思っていたくらいだった。
そう、大学生の人たちである。
大学というところは、中学生のように、朝から夕方まで、ぎっしり授業が詰まっているわけではないということは聞いていた。
「自分で、授業を選んで、それを大学に自己申告して、カリキュラム通りの講義を受けて、それでどれだけの単位が取得できるかということになるのよ。だから、人によっては、朝の一限目をほとんど取ることなく、朝寝坊ができる人も多いわけ」
と、親せきの女子大生のお姉さんが、そういっていた。
しかも、大学生の一時限というのは、高校生までと比べて長いものだ。高校生までは、基本、1時間未満が普通だが、大学では1時間半が一時限となるようだ。だから、午前中の講義は2時限、午後は3時限となる。だから、5時限目などを選んでいると、講義が終わるのは、夕方くらいになり、冬場だと、完全に日が暮れている時間であった。
そんな話を思い出しながら電車に乗っていると、車窓を眺めているのに、考え事をしているせいもあってか、せっかくの綺麗な景色が頭に入ってこない。
電車に限ったことではなく、初めての路線であれば、今までなら、車窓を眺めることが最優先で、考え事をしていたとしても、車窓から目を離したり、上の空で、せっかくの車窓を見逃したという感覚になることはなかったはずだ。
何と言っても、目の中に入ってくるものだから、興味のあることは、見逃すはずがなかったのだった。
しかし、その日は、考え事の方を強く感じたのは、
「それだけ、考えていることに、何か引っかかることがあったからなのかしら?」
という思いと、もう一つは、
「初めて乗った路線のはずなのに、前にも乗ったことがあったような気がするからなのだろうか?」
と感じた。
「こういうのをデジャブというのかしら?」
と思ったが、実際に、景色を見ていて、
「前に見たことがあったような」
と感じたわけではなく、車窓を見ているのに、考える方が強いなどということは今までになかったことで、そういう意識が働いているのではないか? と感じたことが強かったからに違いない。
「そういえば、お母さんと、一緒に街によく行っていたような気がしたな」
母親が亡くなったのは、まだ、小学生の低学年だった頃、正直、母親と一緒にいたという記憶や、どこかに出かけたという記憶は、ほぼ皆無だったといってもいい。
それは、本当に覚えていないのか、小さい頃だったことで、
「遠い昔の記憶として、必要以上に記憶の奥に封印されているのかも知れない」
という思いがあるからなのか、正直ハッキリと分からなかった。
ただ、車窓を見ていて、
「前にも一度見たような気がする」
と思った時に、その時に誰が一緒だったのかと考えた時、思い浮かんだのが母親だったのだ。
それまで母親と一緒にいた記憶を思い出すのは、消去法で思い出すことが多かった。
「お父さんでもなく、先生でもなく、友達でもない。だとすると、お母さんとだったのかな?」
というような感じである。
しかし、今日は消去法ではなく、いきなり、母親だという意識になったのだ。こんなことは今までで初めてだったのかも知れない。
「お母さんを恋しいと思っているのかな?」
と考えていると、ふと父親の顔が頭に浮かんできた。
「お父さんは、お母さんが死んでから、再婚しようって思ったことあったのかしら?」
と考えた。
正直、つぐみにとって、
「お母さんは一人なんだ」
という思いはあった。
しかし、父親がもし、誰かと結婚したいと感じたのだとすれば、それを反対する権利は自分にはないと思っていた。そこまで父親を拘束できるほど、自分は子供ではないと思っていたのだが、もし、再婚ということになると、新しい母親はもちろんのこと、父親も今までと同じ目線で見ることはできないと感じるのだった。
「そんなことを考えていたから、車窓に集中できないのかしら?」
と思った。
だが、実際に父親の再婚のことは、一瞬だけ考えて、すぐに頭から消えていた。それなのに、余韻のようなものだけが、残ってしまったということだろうか?
「ひょっとすると、余韻の方が、意識としては、深く残るものなのかも知れない」
とも感じた。
父親が、今まで再婚のことを一言も言わなかったのは、ずっと自分のためだと思っていたつぐみだったが、父親を見ていると、堂々としたところがあるかと思うと、急にオドオドしたような態度を感じる時がある。
その違いはどこから来るのか、つぐみには、よく分かっていなかったのだ。
父親が誰と結婚しようが、自分には関係ないとハッキリ言えるのであれば、最初から言っていると思う。
もし、父親にその気がまったくないのであれば、そのことを口にした娘を見て、ポカンとした表情を浮かべたまま、つぐみの言葉に、どんな意味があるのかということを考えて、結局、堂々巡りを繰り返し、金縛りに遭ったかのようになるのではないだろうか?
電車に乗っている間、時間的には30分もなかったと思う。都心部への通勤圏で、電車で30分以内であれば、基本、許容範囲ではないかと思った。
ただ、それは毎日通い慣れた人が思うことで、実際には、
「結構遠いんだな」
と感じることだろう。
ただ、ほとんど初めて、しかも、電車に一人で乗るのも初めてだということを考慮すれば、想像よりも、遠いとは感じていないのかも知れない。
あまり電車に乗り慣れていないと、遠ければ遠いほど、ワクワクしてくるものだが、初めてとなると、そこまで果たして感じるものであろうか? せっかく初めてのつぐみであったのに、上の空で途中までやりすごしたことは、
「一生の不覚だ」
といってもいいかも知れない。
電車の醍醐味は、何と言っても、
「ガタンゴトン」
という音とともに、心地よい揺れを感じた時である。
自分では意識していないのに、揺れを感じた時、まわりの皆は、その揺れに抗うことなく、揺れに身体を任せるようにしている。その時に、別に心地よさそうな顔になることもなく、一様に無表情なのは、揺れに慣れているからなのかも知れない。
つぐみも、久しぶりに乗ったので、そのことを感じていた。
普段乗るバスの場合は、顔を見ていると、揺れ自体が電車ほど緩やかではないので、揺れた瞬間、ドキッとしてしまうのだが、こちらも、そんなに驚くことはない。慣れていると、どの場所で揺れが激しいかというのも分かってくる。もし、皆ビックリした表情をするとすれば、運転手が予期せぬ急ブレーキを踏んだ時に違いない。