秘密は墓場まで
父親の浮気を知らずに、母親がいないことに一抹の不安を感じながらも、何とか思春期を乗り越えてきた、つぐみだったが、どうしても、潔癖症な性分だけは治らない。
「別に悪いことではないし」
と、つぐみは思い込もうとしていたが、どこまで割り切ることができるだろうか?
潔癖症になると、人のいい加減さが、すべて、わざとらしく感じられるようになる。それは、きっと、
「勧善懲悪」
という考えから成り立っているのではないだろうか?
勧善懲悪という考え方も、潔癖症という考えも、その共通点には、
「妥協を許さない」
という考えがあるのではないだろうか?
妥協を許さないから、自分も悪いことはできない。だから、相手の悪い部分も、自分だったら、見抜くことができる。他の人には見抜けないことを見抜けるのだから、自分は偉いのだと思い込んでしまう。
だから、潔癖症は、潔癖であることが、それ自体が正義となってしまう。だが、つぐみの中では、そんな潔癖症を、どこかで毛嫌いしている自分がいる。潔癖症を認めたいのはやまやまなのだが、それを認めてしまうと、自分が勧善懲悪ではなくなってしまう気がするのだ。
「潔癖症というのは、勧善懲悪と敵対関係にあるのではないだろうか?」
と考えてしまう。
潔癖症になると、まず、まわりが信用できなくなる。
「最初から信用できるくらいなら、人を汚らしいなんて思いもしない」
ということである。
汚らしいと思うのは、
「相手に気を遣っていないからだ」
と思うのだが、それは、
「気を遣っているのであれば、相手に汚らしいと思わせるようなことはしないだろう」
というのが、その考えの元になるもので、それは、きっと、にんにくの匂いであったり、汗の臭いなどの元を知らないのと同じことだろう。
ニンニクや餃子などを食べた後に、近くを通ると、すごい匂いがする。まわりは皆、
「こいつ、餃子を食べたな」
ということで、かなりの臭いが籠っているのに、
「どうして、何も対策を取ろうとしないのだ?」
ということが腹が立つのである。
せめてガムを噛むとかすればいいのに。本人はまったく気にしていない。まさか、それが、本人には分からないものだということを、つぐみは知らなかったのだ。
なぜかというと、
「人が嫌がることを、自分からしたくない」
という思いがあるので、ニンニクの入ったような、臭いがするものを食べようとは思わないのだ。
だが、これは、本人にとってはまわりに気を遣っているように見えるが、却ってあざという行動に見える。
「自分は、まわりに迷惑を掛けないために食べないといっているということは、食べること自体が罪悪だといっているようなものだ」
という風に見えるだろう。
本人は、食べてはいけないというわけではなく。それなりに対策を取っていればいいと思っているはずなのに、実際には、それが皮肉に見えるということは、それだけ、まわりは、
「彼女が何かをするのは、わざとらしく見えるかのように振る舞っているとしか思えないのだ」
と感じるのだが、彼女からすれば、
「まわりが何もしないことがわざとらしい」
と感じていた。
正反対のことのようだが、正対しているものが正反対であれば、向いている方向は決まっているようなものではないか。
父親が不倫をしていることに、つぐみが気づいたのは、偶然だといってもいいだろう。父親が、その日、携帯電話を忘れて会社に行ってしまったことで、本当なら会社に電話を掛けてあげれば済むことだったのだろうが、娘として気を利かせたつもりで、サプライズも兼ねて、
「私が会社に持って行ってあげよう」
と思ったのがきっかけだった。
ただ、そのもう一つも裏には、
「お父さんの会社には来るんじゃないぞ」
といっていたので、こんなことでもない限り、父親の会社に行くことはないと思ったからだ。
それを最初に電話など掛けてしまうと、
「持ってこなくていい」
と言われるのがオチなので、既成事実を作ってしまえば、怒られることはないだろうと思ったのが、まずかったのだろう。
会社の場所は聞いていて知っていた。
父親は、まだ、ガラケーだったので、すでにスマホを持っていた、つぐみとしては、
「いまさら、ガラケーの遣い方なんて、忘れちゃったわ」
というくらいなので、父親から、
「ケイタイ見たんじゃないか?」
と言われることもないだろう。
そういう意味でも、つぐみが自らで持っていくということは、
「ケイタイを私は見ていない」
ということの証明にもなると思ったのだ。
どちらにしても、一長一短あるのだが、直接持っていく方が、なんぼか、マシな結果になることだろう。
ちょうどその日は、学校が、創立記念日で休みだった。そのことは、父親も知っている。だから、今日は娘は一人でのんびりとしているだろうと思っているに違いない。
だが、娘は、朝起きて、リビングのテーブルの上に、父親のケイタイがあるのを見かけて、ビックリしたのだ。
「どうしよう。電話してあげようかしら?」
と思ったが、
「待てよ」
と、いろいろ考えているうちに、結論として、
「私が持って行ってあげる方が、どれだけいいことか?」
という結論を導いたのだった。
朝食を、適当に取ってから、すぐに着替えて、出かける用意をした。
「今からいけば、午前中には会社につける」
と考えた。
今の時間が、10時過ぎ、家を10時半に出ても、12時までには会社につける。それは、父親がいつも、
「会社までは1時間くらいでいくから」
ということであった。
ただ、それは通勤時間帯のことであって、それ以外の時間だとどうだろう? 電車の本数は少ないだろうし、まわりの人の歩みは遅いだろう。
「そもそも、人が歩いているのか?」
と思うほどであったが、さすがにオフィス街。人がいないなどということは考えられない。
そう思うと、すでに業務時間に入っている人が営業で出歩いているということなので、通勤時間によく見かける、ただ義務感だけで通勤している人たちのような、覇気のなさからは想像もできないような雰囲気を感じ取ることができるかも知れない。
仕事中と、これから仕事というまだ、仕事モードには入っていないが、どこか義務感を拭い去ることのできない雰囲気は、果たしてどこがどう違うというのか、興味深いものであった。
つぐみは、通学にはバスを使っていたので、電車に乗ることはほとんどなかった。そういう意味でも、電車で出かけるというだけでワクワクしてくるのは、電車というものに、特別な感情を抱いていたからだ。
何と言っても、電車は、線路の上しか走れない。終点に着けばそこで終わりなのだ。
「ラッシュの時間ではない時間帯というのも、少し気が抜ける気がするな」
と感じたが、電車に乗れるだけで、ドキドキするのは本当だった。
やはり電車に乗ると、人は少なかった。意外と感じたのは、
「年齢層が高い人もいるな。しかも女性?」
という感覚だった。