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秘密は墓場まで

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 中毒になっているのだから、いきなり辞めてしまうと、元々の原因となったストレスに押し潰されてしまう。しかも、最初は中毒になる前だったこともあり、精神的に強かったものが、もし、中毒を解消したとしても、身体を蝕んでしまったことで、元には二度と戻れないことから、問題の解決になっていないどころか、それ以上の苦痛を伴うことになるだろう。
 そういう意味で、
「一度、治ったとしても、ちょっとしたことがきっかけで、依存症に逃げてしまうことになる」
 というのが、依存症による、
「常習性」
 というものだろう。
 普通に考えれば、
「あれほどの苦痛を伴い身体から毒素を抜いたのに、また常習性に戻ってしまうということは、それだけ世間の風当たりは強いということだろう」
 一度、依存症になった人間を、たぶん世間は一線を画した形で見るに違いない。まるで犯罪者を見るかのようである。
 本当の犯罪者でもきついのに、別に犯罪を犯したわけでもないのに、犯罪者扱いをされるというのは、それこそ、逃げ出したい気持ちになっても、無理もないだろう。
「どうせ、一度汚れてしまった自分が、更生しようとしたって、まわりは、相手にしてくれないんだ」
 と思うと、何もしたくなくなるというものだ。
 そこまでくれば、また、依存症に逃れたくなる。
「まともになったって、そこから先を誰も見てはくれないんだ」
 という思いが強い。
 医者やカウンセラーが、
「依存症から抜け出して、早く社会復帰をできるようにお手伝いいたします」
 などと言っても、ほとんど、依存症を抜け出すまでしか面倒は見てくれない。
 元々、自分の意思の弱さから入ったものだという思いはあるが、だから、先生たちのいうことを聞いて、何とか依存症を抜け出す努力をしているのに、結局、抜け出すところまでで、その後は、
「本人次第」
 とでも思っているのか、本人は突き放された気分だ。
 つまりは、けがをして、骨を折ったとして、ギブスをしていた場合を考えればいいのだが、依存症が治るまでしか寄り添ってくれないということは、どういうことかというと、
「骨が繋がって、ギブスが取れるところまでしか、相手をしてくれない」
 ということだ。
「リハビリは自分で勝手にやりなさい」
 と言われているようなものだ。
 ギブスを外してすぐなど、身体中がこわばっていて、ほとんど動かすことができない。歩くことすらままならない状態で放り出されたのであれば、どうすることもできないであろう。
 そんな状態において、社会復帰などできるはずもない。それを思うと、一度嵌ってしまった沼から抜け出すことは、難しい。だから、この手の犯罪性のものは、再犯者が多いというのも頷けるだろう。
 もっとも、浪費癖も、依存症も犯罪ではない。むしろ、病気であって、犯罪者予備軍の可能性を秘めているといってもいいだろう。
 だから、余計にフォローを最後までしないと、せっかく、依存症を抜けても、それは、一時的なものにしかすぎないということになるのだろう。
 それを思うと、自分のことを棚に上げてということになるのだろうが、世間の風当たりというものは強く、しょせんは、気持ちを分かってくれるわけではないので、最期は中途半端に終わってしまう。それが再犯を呼ぶことになるのである。
 そんなつむぎは、人のことを気にするはずもない。自分のことだけで精一杯なのに、まわりが何を言おうが、馬耳東風である。
 何を言われても心に響くわけはないし、それどころか、皮肉を言われているとしか思わない。
 それこそ、
「カプグラ症候群」
 のような精神疾患に陥るのが、オチである、
 だから、まわりとの距離はさらに広がり、孤独化する。まわりからすれば、
「カウンセリングや、病院で、治ったはずじゃないのか?」
 と思われているのだ。
 本人は、まわりから見捨てられていると感じているのだから、まったく接点が見つからない。平行線どころか、どんどん遠ざかっているのだから、どうしようもない。
「再犯しないためには、まわりの協力も必要だ」
 と言われているが、これでは、まったく協力が得られるわけもない。
 協力どころか、ひんしゅくを買ってしまうことで、どんどん、距離が遠ざかってしまう。
 それも、治療をする側が、中途半端なところで放り出してしまうのが一番の原因なのではないだろうか?
 こんな簡単なことを誰も分からないとは思えない。たぶん、
「仕方のないことだ」
 と思って、諦めているのではないだろうか?
 確かに、禁断症状が起こらないようにしたことで、病気の部分は取り除くことができ。あとは本人の自覚とリハビリなので、本人の問題が大きいのだろう。
 しかし、病院でリハビリもせずに、骨が折れた人間を放り出すだろうか?
 せめて、自分でできないまでも、リハビリ専門医に任せるように、引継ぎくらいはするだろう。
「リハビリは、自分で勝手に医者を探して、自分でやってね」
 などという医者がいるはずもない。
 だから、リハビリをしてくれない医者から放り出されたのだから、世間に対しての不満も大きい。
 もし、自分のことで精いっぱいではなかったとしても、この恨みから、世間のいうことを聞くわけもない。
 しかも、
「皆がいうんだから」
 とか、
「それが、社会の決まり」
 などと言う言葉は特に嫌いだった。
 しかし、そのくせ、人がルールを破ったりするのを見ると、
「世間のルールも守れないなんて、モラル以前の問題だ」
 と、
「どの口がいう」
 という状態になるのだが、それはきっと、つむぎという女性が、
「勧善懲悪」
 なところがあるからだろう。
 自分に対しては、甘いところがあるにも関わらず、まわりに対しては、勧善懲悪の意識から、ルールを守らない人間に怒りを向けたりするのだった。
 そんな、人間的に矛盾を孕んだ考え方をしているが、自分の中では納得できていた。
 世間のルールがどういうものであるか。この際、関係ない。
「ルールを破るのは、勧善懲悪の観点から許されることではない」
 という意識であった。
 だから、まわりの意見やモラルを気にするのは、基本的に、
「勧善懲悪」
 の範囲内でだけのことである。
 それ以外のところで、ルールを守ろうが守るまいが、一切自分に関わるところではないと思っていたのだ。
 自分が甘いという意識は、普通にあった。勧善懲悪というのも、結構小さい頃から感じていたことだった。
 だから、逆に、気持ちを人並みの正常なところに持って行こうとすると、勧善懲悪とは別のところで、
「人と同じでは嫌だ」
 という考えに至るものであろう。
 つむぎは、そんな中途半端な気持ちで、金遣いが荒くなっていた。この間二十歳を過ぎたことで、高額の買い物も、ローンも、一人でできるようになり、余計に金遣いが荒くなったことで、家計を圧迫するどころ、借金も重ねてしまっていたようだ。
 そんな中、さすがに、旦那にもバレてしまい、娘の処遇が問題になってきた。
「これ以上の浪費をできないようにするのが先決である」
 というのが、一番の問題となり、民法でいうところに、
「法律的無能力者」
 ということで、
「成年後見制度」
作品名:秘密は墓場まで 作家名:森本晃次