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秘密は墓場まで

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 言えば、バカにされるだけだということが分かっているからなのか、言うだけ無駄だと思うからなのか、口にすることも控えている。
 だが覚悟をしたのであれば、いってもいいような気がする。
「ああ、あの言葉本当だったんだ。分かっていれば、親身になって聞いてあげたのに」
 と言わせたいとも思うが、そこまで思うと今度は、
「聞いてもらっても、どうなるものでもない。却って、相手に罪悪感というトラウマを植え付けるだけではないか?」
 と、自己満足とトラウマを比較したが、死んだ人間の自己満足と比較しても、文字通り次元が違うのだから、どうしようもないということであろう。
「覚悟と諦めというのは、紙一重なのだろうか?」
 と感じた。
 それは、長所と短所が紙一重なように、
「鬱状態と躁状態が紙一重で存在しているのと同じではないか?」
 と感じた。つまりは、
「鬱状態と躁状態も、覚悟と諦めというのも、それぞれに、背中合わせだといってもいいのかも知れない」
 と感じたのだ。
 そもそも、
「紙一重と、背中合わせという言葉も、そもそもが似て非なるものだ」
 といっても過言ではない気がする。
 サスペンスドラマのパターンが、数種類であることが分かってくると、
「ああ、なるほど、これくらいのものを適当に回していくのか?」
 と、まるで、自分がプロデューサーか監督にでもなったかのような気がした。
 しかし、
「どうせ、やるなら」
 という但し書きが付くとすれば、
「結局、どれもできっこないんだから」
 という言葉の通り、平等にまったくの初心者だと考えるのであれば、つぐみには、プロデューサーでも、演出家でも、監督でもない、シナリオライターがやりたいと思った。
 しかし、これは、いろいろ勉強していくと、少し自分っが考えていたものと違っているようだった。
 というのは、最初に考えたのは、小説家だったからだ。
「何もないところから、新しく作り上げる」
 ということに造詣が深いつぐみにとって、小説家というのは、できるできないを別にすれば、これほどやりがいのあることはないと思っていた。
 同じように、ドラマを作るうえで、小説家と同じようなところがあるシナリオライターというものは、
「無から、有を作り出す」
 という意味で、小説家と似たようなものだと思っていた。
 確かにマンガ家などと違って、文章での表現という意味でいけば、同じではあるが、小説家との比較であれば、シナリオライターよりも、マンガ家の方が、かなり小説家に近いということであった。
 それはどういうことなのかというと、
「小説家とシナリオライターの一番の違いは、小説家というものが、出版社の意向を考えないとすれば、基本、自由にすべてを自分で作ることになる。しかし、シナリオライターになると、まわりとの連係プレーが欠かせない」
 ということになるのだ。
 つまりは、まわりというと、まずは、俳優さんである。
 俳優さんのことを考えると、シナリオにはあまり、ライターの個人的な気持ちを込めない方がいいと言われている。なぜなら、
「演技をするのは俳優であり、俳優がアドリブなど、個性を発揮できるように、余裕をもって脚本を書くことが大切だ」
 ということであった。
 つまり、遊びの部分が必要だということである。
 実際に、ドラマ撮影において演技をしていた俳優で、
「これでは、自分のいいところが出せない」
 などと言って、製作スタッフに文句を言って、製作スタッフが、詫びを入れる形で、脚本を書きなおさせることもあるくらいだ。
 確かに売れっ子脚本家ともなれば、スタッフも脚本家にそんな無理強いを強いることはないだろう。
 そもそも、売れっ子ライターだということが分かっているのに、俳優も文句をつけるようなことはしないはずだ。文句をつけると、今度は俳優を交代させられる事態にならないとも限らない。
 その作品だけならまだいいが、
「前に、脚本にケチをつけて、役を下ろされた俳優」
 というレッテルが貼られてしまうと、もう、この業界ではやっていけないという目に遭いかねないのだ。
 ただ、それも、売れっ子ライターに限られたことで、2時間サスペンスなどの、
「穴埋めレベル」
 の脚本家であれば、野球でいえば、1軍半、一度ヘマをすれば、2度と一軍に呼んでもらえなくなってしまう。
 そんなことは分かっているので、不本意であったとしても、スタッフや監督のいうことは聞くしかないので、その覚悟がなければ、シナリオライターとしてやっていくことは難しいだろう。
 何とか当てて、売れっ子になるか。まわりのいう通りにして、自分の個性を生かすことなく、そのまま脚本家として生きるか。
 あるいは思い切って小説家に転身するか、であるが、小説家への転身は難しいだろう。逆にまったくの素人からの方が、小説家を目指すのならいいかも知れない。
 それくらい、この二つは、
「似て非なるもの」
 であるが、紙一重であるが、背中合わせだといっていいいだろう。
 そんな中で、どうしても、元々は、いわゆるゴールデンの後の2時間、つまりは、主婦が、家事などを終えて、ゆっくりとテレビが見れる時間ということで、内容的にも暗いものや、怖いものは受け付けないということから、おのずと内容は限られてくる。
 ということになると、配役もある程度絞られてきて、
「二時間ドラマの帝王」
 などと呼ばれる俳優が、いつも出ていることになる。
 しかも、先週と今週では同じ俳優が出ていて、同じ刑事役ということであっても、まったくキャラの違う作品であったりするのも、あるあるで面白いところであろう。
 俳優が同じでも、監督も違えば脚本も違う。ジャンルの違う話なのだから、それも当然のことである。
 母親が好きで見ていた俳優は知っているので、その俳優がよく出ていた作品を見ていた。最初の頃は、
「ワンパターンで面白くないな」
 と思ったが、それでも何となく見てしまう。そのうちに、何か他のことをしながら、見ているということも多くなっていて、実際に他のことの方に集中してしまって、ドラマの内容を覚えていないということもあったりした。
 それでも、ドラマを見ることを、最初から、
「まるでBGMのようだ」
 と思っていれば、別に気にすることもない。
 むしろ、そちらの方が重要だったりする。それだけに、ドラマを見ている時の自分がそこにいるように思えて、思ったよりも真剣に見ているようで、思いを巡らせてみた。
 普段はスルーしているようで、実際には、誰もが凝視しているように見えるという、テレビCMの時間であるが、別に見ているわけではない。ただ、目を通して、映像が頭の中には入ってくるが、通り抜けているだけで、まったく意識としては残っていない。その時に意識はするが、すぐに通り抜けるというテクニックを人間は元々持っているのだろうか?
 そんなことを考えていると、テレビCMをいつもは飛ばしてみていたが、たまに見てみたいと思うこともあるのだった。
 その日は、父親から、
「仕事で遅くなる」
 というメールが届いたので、
「今朝の気まずさ、明日になれば晴れているといいな」
 と思ったのだった。
作品名:秘密は墓場まで 作家名:森本晃次