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秘密は墓場まで

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「でも、顔を思い出せなかったのは、口うるさい母親というイメージが強く、寂しさの中で、どこかホッとしている自分がいることに、自己嫌悪があったからじゃないだろうか?」
 と感じたのだった。
 どちらも両極端に感じることであるが、
「なんだかんだ言っても、小学生の私には、母親が必要だったんだ」
 と後から思うと感じさせられるような気がして、今回それまで一度も思い出せなかった顔を思い出せるくらい近くに記憶がよみがえってきたということは、一体どういうことなのか?
 やはり、今回目撃したことは、いいことなのか悪いことなのか、少なくともそのどちらかであることに変わりはない気がした。
 この場合、状況から考えると、決していいことでないことは確かなので、その時点で、
「見てはいけないものを見てしまった」
 ということになるのだろう。
 日本に限らず、寓話やおとぎ話などでよくある、
「見てはいけない」
 あるいは、
「開けてはいけない」
 というものとして、
「見るなのタブー」
 というのがあるが、この時はまさにそんなものだったのではないだろうか?
 浦島太郎のように、おじいさんになってしまったり、聖書の中にある、
「ソドムの村」
 の話のように、
「塩の柱になってしまった」
 などという話が伝わっているように、つぐみは、
「一体どうなってしまうのだろうか?」
 と、考えさせられるのだった。
 今考えてみると、
「お父さんの浮気っていつからだったのだろう?」
 という思いだった。
「まさか、お母さんが存命中も?」
 と思うと、少し違和感があった。
 しかし、先ほどの父親と、不倫相手と思しき女性の姿を見た時、
「女性の方は、いい加減見切りをつけたかったのではないだろうか?」
 と感じた。
 いくら子供であっても、女性の考えていることは何となく分かる気がした。それは、口うるさい母親に対してでも、
「何がいいたいのか分かる気がしたな」
 ということを思い出していた。
 それは、逆に、
「相手がいいたいことが分かるだけに、そのあざとさやわざとらしさが、腹が立つんだよな」
 ということであった。
 確かに、性格の合う人間が仲がいいというわけでもない。逆に、相手が考えていることが分かるだけに、嫌だと思うくらいになるだろう。
 前述のように、相手のあざとさやわざとらしさが分かることで、余計に腹が立ってしまったり、相手に分かられてしまうことで、こちらの考えがすべて筒抜けになってしまうと、雁字搦めになってしまって、気を遣うことが、一気に疲れに結びつくということだからである。
 そういえば、仲が良かったカップルが別れる時、
「あなたといれば、疲れるの。まるですべてを知っているかのような、目で見られると、身動きが取れないのよ」
 といって離れていくのを、ドラマなどでよく見たものだ。
 前述からの話の展開で、つぐみという女性が、
「ドラマ好きだ」
 ということは、織り込み済みだと思っているが、それもこれも、元々ドラマが好きだったのは、母親だったのだ。
 特に、昼のサスペンスなどをよく見ていて、小学生の低学年だと、高学年に比べて、授業時間が短いことから、結構早く帰宅できるので、家に帰ってくると、ちょうど母親が昼下がりのサスペンスドラマを見ているところに帰ってくることになる。
「おやつは、テーブルの上ね」
 とそれだけ言って、引き続き、ドラマを見ている。
 その時だけはドラマに集中していて、口うるささはないことで、ありがたいのだが、子も心に、
「サスペンスドラマって、そんなに面白いのかしら?」
 と思い、母親が死んでから、しばらくは忙しかったので何もできなかったが、急に、一段落すると、何もすることがなくなった。
「急に気が抜けてしまった」
 というべきか、それこそ、今まで1日が、15時間くらいに感じていたのに、それが逆に、
「30時間くらいあるのではないか?」
 と感じるようになったことで、
「何をすればいいんだろう?」
 と思うと、
「どうせ家での作業の間だから」
 ということで、
「母親のまねごとをしてみようか?」
 と考えるようになった。
 母親のマネをして何になるのか分からないが、本当であれば、20歳以上の女性がすることを、まだ、14歳くらいの小娘が、嫌々ではないが、しなければいけないことを考えると、思いつくのが、母親のまねごとだった。そこで思い出したのが、母親が嵌って見ていたサスペンスドラマで、時間帯もあるので、録画しておいたものを、家事をしながら見ることにすれば、
「母親の気持ちになれるであろう」
 という感覚であった。
 実際に、見ているドラマを見ながらであれば、時間を刻むという感覚はなく、意識しなくても、自分で時間配分ができるようになったことだけは、間違いないようだった。
 サスペンスドラマは、見ているといくつかのパターンに別れているようだ。最初は、
「結構いろいろありそうだな」
 と、パターンがありそうなことは予感できたが、それがどれほどのものなのかは、ある程度見進めなければ分からない。
 無限である可能性もあるし、そうでもないかも知れない。あくまでも、
「どこが一周なのだろうか?」
 ということは、普通に一周しただけでは分からないということだ。
 無限でないことは分かっていても、どこまでが本当なのかを考えると、
「もう一周見てみないと分からない」
 という気持ちになり、
「本当にもう一周でいいのか?」
 という、堂々巡りを繰り返してしまいそうになるのだった。
 それが疑心暗鬼になってしまい。
「まるで、アリ地獄にでも落ち込んでしまいそうだ」
 と感じるのだった。
 アリ地獄というと、一度嵌ってしまうと、逃げようとしても、無駄に砂を掻くだけなので、力の消耗はかなりのものだ。
「もう、このまま助からない」
 と思う瞬間があるのだろう。
 それまでの力はまったく消えてしまって、逃れることを諦めてしまう。その瞬間に、
「覚悟が決まった」
 と感じるのだろうか。
 覚悟を決める時は、人生に何度かあるというが、本当の覚悟は、死ぬ時の一度だけのことをいうのかも知れない。
 人生の節目で感じる覚悟とは、一体どういうものなのだろう?
 失恋をして、その諦めがついた時、あるいは、受験に失敗した時など、
「今回はしょうがない」
 と思う時であり、何か失敗をしたり、自分の考えの甘さから、計画していたことが頓挫してしまった時などにいうのであろうが、基本的に、
「次がある」
 ということで、諦めをつけるのであった。
 では、死ぬ間際の覚悟とは何であろうか?
 元々、不治の病に侵されていて、助かる見込みがない場合は、いつ死ぬというのが大体分かるので、その時に覚悟を決めるだろう。だが、人生には、たとえ不慮の事故でも、
「俺はもうすぐ死ぬのかも知れない」
 と思う瞬間があるというが、本当であろうか?
「虫の知らせ」
 などと言う言葉で表されるが、本当に無視の知らせなどということがあるのだろうか?
 しかし、死を間際にした人は、自分から、
「俺、もうすぐ死ぬんだ」
 とは決して言わない。
作品名:秘密は墓場まで 作家名:森本晃次