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摂関主義宗教団体

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 社会に出て、社会人をまっとうしたら、後は年金での余生を暮らすという考えは、なくなっているかも知れない。
「そんなのは嫌だ」
 と思ったとしても、今から40年も経てば、どんな世の中になっているというのだろう? 想像するだけで恐ろしい。

                 新興宗教

「宗教を信じる人というのは、どんな人間なんだろう?」
 と考えたことがあった。
 新興宗教というと、どうしても、
「テロ予備集団」
 という意識が強い。
 それは、かつての宗教団体にそういうものが多かったからだ。家族から引き離して、孤立させたり、教祖からマインドコントロールを受け、教祖がハーレムのような生活をしていたり、さらには、大量殺戮をもくろんだりした怪しい団体が、定期的に現れたりしたからだった。
 だが、それは、ほんのごく一部の集団というだけではないだろうか。考えてみれば、太古の昔から、この世の中には、宗教が存在した。
「宗教なくして、この世は存在しない」
 と言ってもいいかも知れない。
 そして、いまだに繰り広げられている戦争の原因のほとんどが、宗教問題であるということは誰もが知っている事実である。
 キリスト教にある、
「モーゼの十戒」
 というものの中に書かれている戒律。その中の一つに、
「人を殺めてはならない」
 という言葉があるではないか。
 人を殺してはいけないというのに、戦争というのは、人を殺すことを目的とはしないまでも、目的を達成するためには、人の命も仕方がないという考え方ではないか。
 これは、明らかに矛盾している。
 特に十字軍など、宗教同士の権力争いのようなものであり、どんな理由があったとしても、人の命が犠牲になっていいものか? 非常に疑問である。
 また、これは戦争ではないが、宗教の中には、
「生贄」
 というものが、必ず儀式には必要になるものだ。
 神に、天災を収めてもらう時なども、生贄をささげたり、何かの建物を建てる時だって、「人柱」
 なるものが存在した。
 確かに、
「全員を救うために、一人の生贄を捧げる」
 という考えは、人間の覚悟の表れとして、捧げられた神は考えるのかも知れないが、死ぬ人間にとって、覚悟も、生き残った人たちも関係ないのではないだろうか?
 逆に、自分を見せしめにして下手をすれば、
「都合の悪い人間を体よく葬り去ることができる」
 ということで、粛清のための言い訳に使う輩だって出てくるかも知れない。
 それを思うと、宗教の何たるかということが分からなくなって当然であろう。
 特に、イスラム教の過激派など、ゲリラ戦になると、お得意の戦法として、
「自爆テロ」
 というものがある。
 どこか、大日本帝国のいわゆる、
「カミカゼ」
 と似たものがあるが、果たしてどうなのだろう?
 イスラム世界の人間がどのような感覚なのか、大日本帝国の当時の人たちが、どういう気持ちだったのか分からないが、少なくとも彼らには、守るべきものがあって、そのために命を捨てることになったということであろう。
 それを、良し悪しという物差しで語っていいものなのか分からないが、
「勧善懲悪」
 の梶原としては、絶対に許せないはずなのに、どこか、煮え切らないところがある。
 それは、自爆テロやカミカゼが、善悪という物差しを使えないということが分かっているからで、やはり、勧善懲悪は大切なことだとは思うが、その線引きを果たして誰ができるのかということが問題なのだと思う。
 人間にそれができるのか、やはり神の領域なのか? 神様の定義がどこにあるのか、宗教も分かっているのかが疑問である。
「一体何が神の領域だというのか?」
 と、そんなことを何度か考えたことがある。
 考えてみれば、宗教も様々であり、神々というのも、いろいろいたりする。中には同じような神がそれぞれに存在している場合もある。ギリシャ神話とローマ神話では、似たような神がいて、例えば、美の神であったり、海の神というのも、ちゃんとそれぞれに存在していて、名前が違うだけという感じだ。
 これは、どちらかが元祖で、どちらかが派生型と言われるものなのかも知れない。
 キリスト教でも、新旧あり、旧が、カトリックであり、新がプロテスタントと呼ばれている。
 信者ではないので、どこがどのように違うのかはハッキリと分からないが、宗教には宗派があったりして、それが、違う宗教として形づけられていたりするではないか。
 人間の中には、
「神になりたい」
 と思う人間や。神と同等の力を持ちたいと思う人、または、神の力を利用しようとする人、さまざまである。
「バベルの塔」
 の話のように、神に近づこうとして高い塔を建て、その権威をしめそうとする輩。
 または、大日本帝国のように、国を統治するために、中央集権国家を作ろうとして、天皇を神だと祀り上げることを考えた政府など、さまざまである。
 だが、今一般人の意識の中で考えられている神の存在は、
「神は、人間一人一人の心の中にいるものだ」
 という考えもあるだろう。
 しかし、神の存在というものは、そもそも、人間に近いところにいてはいけないのだ。
「人間を救うところに神の存在意義がある」
 という考えからいけば、神は、人間にとって、絶対神話の存在にいないといけないのではないか。
「神を信じる以上、個人の尊厳は存在しない」
 一人一人を見ていては、必ずそこに矛盾が存在してしまう。
 そのためには、確固たる集団が必要になってくる。神を崇めたてることで、人間が神を信じるという一つのことに邁進するのだ。
 それが、宗教団体の存在意義ではないだろうか?
 人間がこの世で生活していくうえで、必要なものを得るということで存在しているのが会社というものだとすれば、生きていくうえで必要な感情を保つという意味で、必要なのが宗教だとすれば、
「絶対的に必要な会社と同じように、人それぞれに、宗教があって当然だ」
 という考えである。
 宗教というのは、信じる信じないは自由だが、信じる人間を抑えつけるわけにはいかない。それが、憲法で認められている
「信仰の自由」
 である。
 これは、
「職業選択の自由」
 と同じで、信仰の自由も、基本的人権の中の一つなのだろう。
 ただ、そんな人間の心理を巧みに利用して、金儲けを企む悪徳な輩がいるのも事実だ。
 中には。人の信仰心を利用して、金儲けをする連中も結構いたりする。しかも、宗教団体は、一種の国家のようなもので、中に入ると、教祖がいて、団体を運営している人たちがいるのだ。
 宗教団体と言っても、お金がなければ飯も食えない。食べなければ人間は死んでしまうのだ。
 ただ、昔からの宗教の教えのほとんどが、
「この世でうまくいかなかったことであっても、この世でいいことをしていれば、必ず来世で報われる。だから、この世で、来世のために徳を積むのだ」
 という考えが一般的だろう。
 もちろん、人それぞれなので、来世を信じていない人も多いだろう。そういう人に、そもそも来世を解く宗教の教えは、まったくの無意味なのである。
作品名:摂関主義宗教団体 作家名:森本晃次