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摂関主義宗教団体

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 相手に気を遣うということは、相手も自分に気を遣ってくれるかも知れないというところから始まる。その望みがないということを最初に分かってしまうのは、これこそ悲劇だといえるのではないだろうか?
「悲劇って何なんだろう?」
 と思っていると、自分の本性が、悲劇に塗れているのではないかと感じてしまうのだった。
 ただ、本当に、
「相手のことを思いやることだけが、正義なのだろうか? 一歩間違えれば、自己満足で終わってしまうのではないだろうか?」
 と感じることもあった。
 確かに、言葉をうまく使ってやんわりとした言い方をすれば、相手に対しての印象もいいし、その場をうまく和ませることもできる。ただ、それがウソではないと言い切れるのでなければ、下手をすれば、詭弁でしかないのだ。
 営業であれば、それくらいのことは分かるのかも知れない。
「自分が考えることは、相手も考える」
 ということが分かるからだ。
 相手を信じるということは、疑わないということだ。つまりは、相手は、正義だと思うことであり、思いたいという願望の表れではないだろうか。
 それは、自分が騙された時への言い訳であり、相手に騙されることが少しでも頭の中にあったのだとすれば、騙されてしまった自分にも落ち度があったことを認めなければいけない。
 騙されたというショックとともに、落ち度が自分にもあったなどということになれば、果たして、いかにして自分を納得させればいいというのか。
 騙されたショックを少しでも和らげるには、
「自分は納得していた」
 と考えさせるしかない。
 それは、仕方のないこととして諦めることであり、そのためには、
「自分が騙されたことを正当化するしかない」
 と言えるのではないだろうか?
 そのためのキーワードは、
「知らなかった」
 ということである。
 知っていたとすれば、言い訳にはならない。確かに知らなかったというのは、自分が無知だったということを証明することになるので、承服できないところはあるが、知っていて騙されたという苛立ちに比べればマシではないかと、以前は思っていた。
 だが、自分が人と同じでは嫌な性格で、勧善懲悪な性格だと思うようになると、知らなかったというのは、自分の落ち度だと思うようになってきた。
「気になることは、調べたり、勉強する」
 ということが、生きる秘訣だと思うようになってから、知らないということは、自分の生きる秘訣を否定することになるのだ。
 そんな矛盾を承服することはできない。
 だが、そのためには、自分の苛立ちに対する矛盾が新たに生まれてくることになる。
「こちらを立てれば、あちらが立たない」
 と言った、そんな矛盾は、また、
「二兎を追う者は一兎をも得ず」
 ということわざとも引っかかってくると思われるのだった。
 そこで、考えるのは。
「本当の正義とは何なのだろうか?」
 という考えであった。
 勧善懲悪という考え方の中では、あくまでも、悪だけが揺らぎのないものだと思えてきたのだ。
「悪の反対は?」
 と聞かれて、
「正義と答える人もいれば、善だと答える人もいる」
 というのだが、
「正義の反対は?」
 と聞かれると、全員が悪だと答え。善の反対に対しても、皆が悪という答えを示すのである。
 つまりは、正義と善は同じものであり、
「似て非なるものだ」
 と言えるのではないだろうか?
 正義も善も、違うものであれば、そこには、正義と善の間がかなり狭い、二等辺三角形ができるのだろう。そう考えると、本当に正義と善との距離がどれくらいのものなのか、考えてみたくなったのだった。
 就職活動において、
「禁句」
 もあれば、
「これは必ず主張しておかなければいけない」
 という部分もあるだろう。
 そのことを、ある会社の就活で感じたのだが、その会社の一次審査の面接として、
「グループディスカッション」
 というものがあった。
 5、6人が1つのグループになり、そこで座談会を行うのだが、そのテーマは、一枚の新聞を渡されて、その中にある記事がテーマとなっていた。
 その時、皆は、当たり障りのない話を話題に挙げて、それを話し始めたのだ。当たり障りというのは、
「誰も、この意見に承服するだろう」
 という、一方的な意見しか出てこないものだった。
「例えば、国際面であれば、どこかの国がどこかの国に侵攻した」
 あるいは、
「民主政権が、独裁政権、特に軍事政権のクーデターによって、倒された」
 などということであれば、ほとんどその意見が分かれることはないだろうというような意見だったのだ。
 ほとんどの人が、
「軍事侵攻はよくないことだ」
「軍事政権を許すことはできない」
 という意見に終始した。
 しかし、梶原は敢えて、反対意見を述べた。本来なら勧善懲悪なはずの梶原が、敢えて反対意見を述べたのは、
「人と同じでは嫌だ」
 という発想があったからだった。
 もちろん、就職試験である以上、ただ、どっちの意見というだけでは、話にならない。その意見となった根拠をハッキリと示さなければ、説得力がない。そこが問題だったのだが、
「皆さんは、あくまでも、事実だけでしかものを言っていませんが、戦争やクーデターというのは、一種の情報戦略も絡んでくるので、マスコミの発表を鵜呑みにするのはどうかと思います。しかも、新聞記事を見ていると、民主主義への挑戦と言っているところから、最初から偏見を持った記事ではないかと疑ってみたくなります。意見を言うなら、片方からだけではダメなんだで、どちらの言い分も聞かなければいけない。そういう意味で、この記事には偏りがありすぎると思うので、侵攻したのは事実であり、それは変えられないと思いますが、だからと言って、侵攻した側の意見は理由が述べられていない。真実はどこにあるのかって、分からないじゃないですか。真実と事実は違うんです。事実だけを見ていると、見誤ってしまうと、私は言いたいんです」
 と、梶原は訴えた。
 その意見を、他の人がある程度、
「右に倣え」
 と、ばかりに、当たり前のことを当たり前に、ただ上からなぞっているような話にいい加減ウンザリしていたところにぶつけたのだから、内容だけではなく、タイミングもよかったのだろう、その場の雰囲気は凍り付いたようになった。
 きっと他の就活生は、
「こいつ、一体何を言っているんだ?」
 と思ったことだろう。
 しかし、説得力という意味では、梶原の方が遥かにあった。二次試験に合格もできたし、その時いた、他のメンバーは、全員一次審査をパスできていなかったようだ。
 二次面接は、1対1の、普通の個人面接だったが、その時、一次審査のグループでキスカッションの話となり、
「あれはなかなか良かったですね。あの場で反対意見をいう勇気と、さらに、反対意見をいう根拠も理論的に正論だと思ったし、さらに最後の、事実と真実は違うという言葉には、引き付けられそうな説得力がありましたからえ」
 と言われた。
 その会社で二次試験を合格できなかったが、二次審査の時に、面接官から言われたことは大いに自信になったものだ。
「俺の生き方は間違っていないんだ」
 ということであったのだ。
作品名:摂関主義宗教団体 作家名:森本晃次