摂関主義宗教団体
にわかのようなハイエナ連中には、しょせん、歴史を勉強する資格もないのだろう。
「本当は、勉強すればするほど、果てしない興味が、永遠に続くというのに」
と、思わざるを得ない。
梶原が歴史を好きな理由はそのあたりにあり、そんな時代が、歴史を作ってきたのであろう。
「勧善懲悪」
これは、歴史を勉強する、梶原の基本的な考えだと言ってもいいだろう。
就職活動
大学3年生を終えると、本格的に就職活動を迎えることになる。法学部を出ているので、就職というと、
「どこでもつぶしが利くからいいよね?」
などと、楽天的なことを言われたものだが、この不景気で就職難の時代に、
「潰しが利く」
などと言われても、正直、気休めにもならない。
歴史が好きで歴史の勉強はしているが、だからと言って、それが大学の成績に反映してくるなどありえない。彼の考え方や生き方に影響を与えるであろうことは分かっているが、もっとシアルな実生活に何らかの影響があるとは、決して思えないのだ。
就職活動をしていても、
「就職してから、どのような仕事がしたいですか?」
と言われても、実際にぴんと来るものではない。
就職活動というと、まずは、受ける会社のことを徹底的に調査して、どこを切り取って質問されても、うまく答えることができるように、最初から原稿を用意しておくことが大切である。
しかも、相手の会社を決して傷つけないように、自分をいかにアピールするかというのが問題である。
自分アピールはまだいいとしても、相手の会社を傷つけずにうまく褒めるというのは、梶原にとっては、実に難しいことであった。
ことと次第によっては、無謀と言ってもいいかも知れない。
「彼の発する言葉は、心の叫びというよりも、勉強したことの裏付けを自分の中で整理した結果の言葉」
であった。
しかも、彼の性格からすれば、そこから出てくる言葉は、自分の本能であり、決して忖度したものではない。
「言葉を選ばなければいけない」
ということは十分に分かっているのだが、言葉を選んでいると、本音が言えなくなるのであり、自分の中で、
「本音が言えないということは、ウソをついているのと同じことだ」
と言えるであろう。
「ウソというのは、悪のことであり、勧善懲悪を基本的な考えかとしている俺には、本音が言えないということは、到底容認できることではない」
と言えるだろう。
しかし、これは就職活動なのだ。
「嘘も方便」
という言葉があるが、それは、
「ウソをつくにしても、相手のためを思うことであれば、それも仕方がない」
ということになるだろう。
就職活動における面接というのが、この言葉の存在意義に当たるのではないだろうか?
皆が許容範囲だとして、納得して、していることであろう。
だが、そもそも、そこまで考えることなく、本能から出てきていることではないだろうか?
それは、人間の防衛本能が働くことで、本音を言わないということが相手に対しての思いやりとなって、ウソだとしても、仕方がないことだという理屈を、一瞬にして組み立てる。
それが、普通だし、人間ならではの発想ではないか?
それを邪魔する、
「勧善懲悪な考え方」
というものが、どれだけ自分の足を引っ張っているのかということが分かっているにも関わらず、その間のジレンマに悩まされながら、結局、勧善懲悪を選んでしまうという梶原に生き方は、どう解釈すればいいのだろう?
だから、余計に言動も過激になるのだ。
ちょっとしたウソを人に知られたくないという思いから、強烈な個性を表に出すことで、まわりを、
「自分が別の強烈な性格である」
と感じさせることに従事しているのだ。
それが、梶原という男の表に出るところの性格を、覆い隠すことができないという本性の表れなのではないだろうか?
「どんな仕事がしたいですか?」
と聞かれて、答えが詰まってしまう。
何を答えていいのか分からないというよりも、
「何を答えたとしても、それはウソなんだ」
という意識があるからだった。
就職活動に限らず、面接であったり、営業では、絶対に言ってはならないワードというものがあるはずだ。
そして、それは、場数を重ねていくうちに分かってくるものであるというのは、営業においてのことであろう。
就職活動において、
「絶対に言ってはいけないことを、いまさら分かったとしても、時すでに遅しと言わざるを得ないのではないか?」
一発勝負の就職活動、
「どの会社でもいいから、どこかに引っかかってくれればいい」
というのは、何度も落ちまくって、結局、就職する会社が見つからずに、切羽詰まった時に考えることだ。
そうなってしまうと、経験から、分かることもあるだろうが、本当にそれでいいのだろうか?
ただ、就活をいくら続けても、場数を重ねたとしても、面接でうまく行くということはなかった。
言葉を重ねるごとに、面接官の顔が引きつってくるのが分かる。最後には、
「もう結構です」
と言われるのがオチだった。
下手をすれば、社交辞令でもある、面接官による最後の。
「ありがとうございました」
という言葉すら聞かれることがないくらいである。
梶原は、人に対して気を遣ったり、言葉を選んだりするのは苦手なのだが、相手が自分に対して、どう思っているかであったり、面接において、相手のことに関しては、きっと、他の人よりもよく分かるのだろうと思っていたのだ。
だから、いつも面接において、
「この人、完全にキレているな」
ということは、手に取るように分かるのだ。
そのくせ、その対処法が見つからない。それを思うと、自分がどういう性格なのかは、相手の態度で分かるのだが、分かったところで、どうしていいのか分からないので、結局、宝の持ち腐れと言ってもいいのかも知れない。
大学生の間は、それでよかった。
「いや、本当によかったのか?」
というのは、大学に入ってから、最初にたくさんの友達を作った。
そのほとんどは、あいさつ程度の連中だったので、相手のこともよく分からないし、自分のことを知られることもなかった。
「その中から、本当の友達になれる人を探せばいいだけのことなんだ」
と考えるからだった。
だが、そんな友達はなかなかいない。相手が自分をどう思っているかが分かるので、相手とどう接していいのかが分からないからだ。
そう、つまり、相手を思いやることができないのは、最初に自分が相手の本性を分かってしまうからだった。
「どうせ、俺のことなんか、適当にしか思っていないんだ」
と思うと、怒りを感じてはいけないと思いながらも、自然と怒りがこみあげてきて、そんな相手に気を遣うなど、ありえないことだ。
その場は気を遣ったとしても、その時だけのことである。その後は、自分の性格である、
「勧善懲悪」
が顔を出して、ウソがつけない性格が表に出てくる。
そうなると、人とのコミュニケーションなどできっこない。何と言っても、相手にその気がないことは、最初から分かってしまったのだからである。