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摂関主義宗教団体

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 それが鎌倉と朝廷であり、さらに板挟みになって、結局滅ぼされたのが、義経だったということであろう。
「もし、義経が戦国時代に現れていれば」
 と考えたりもするが、参謀としての実力は十分だったことだろう。
 歴史に、
「もしというのは、禁句だ」
 と言われているが、発想するのは楽しいことである。
 パラレルワールドという発想もあることだし、もし違った歴史が存在していたということを、フィクションが許される世界であれば、妄想することも許されるに違いない。
 義経、頼朝の関係は、書物として残っていて、平家滅亡などの悲劇的な時代だったこともあって、クローズアップされているが、実際には、どの時代にも起こりやすいことなのかも知れない。
 兄弟が、自分たちの意思に反して、争わけなればならなくなるという話は、歴史に限らず、小説やドラマなどでは、比較的描かれるシチュエーションではないだろうか?
 それを考えると、梶原が考えるような、
「勧善懲悪の世界」
 というのは、ありがちではあるが、
「どこからどこまでが、善で悪なのか?」
 という問題にかかわってくるのではないかと思えるのだった。
 だから、梶原は歴史の勉強をするのが好きだった。特に高校時代までは、歴史を、
「暗記物の学問だ」
 と思っていたことで嫌いだったのが、大学に入って見方が少し変わっただけで、本当に見え方が違ってくるなんて、思いもしなかった。
 それこそ、前述の、
「もし」
 という考えであるが、これは、歴史上のある一点に焦点を当てて、その時に、
「違う道があったとすれば」
 という発想になるのである。
 しかし、その、
「もし」
 というのが、発想の起点であり、その時に何を考えたか、そしてそれに対してどう動いたのかということを考えるのが歴史という学問だと感じた時、
「歴史を勉強してみたい」
 と思ったのだ。
 前であれば、歴史を勉強したいと思うとすれば、
「勉強しておいて損はないと思うんだろうな」
 と感じた時、勉強するということに、気分が萎えてきて、頭が冷めてしまうのではないかと思ったのだ。
 だから、きっと真面目に勉強することはないだろうと思い、勉強してこなかった理由も適当に言っていたのだ。
 ただ、これは自分に限ったことではなく、歴女のように、嵌っている人間以外は、ほぼ、勉強など、真面目に取り組んでしようとは思わないと感じていた。
 それだけ、歴史という学問は、両極端なのだろう。
 好きな人は、ハンパなく勉強する。その理由は。
「歴史という学問には深みがあり、勉強すればするほど、疑問が湧いてきて、永遠にやめることのできないルーティンのようなものだ」
 ということではないだろうか?
 だから、勉強をハンパないくらいにしていて、果てしないその先を見ているということが分かってくると、第三者であっても、一度は引き付けようとするのが、歴史という学問なのだと思っている。
 実際に歴史を一生懸命にやっている人がどれだけいるのかというと疑問である。
 最初に真面目に取り組もうと思っていた人でも、中には挫折する人や、
「歴史を勉強するくらいなら、もっと実用的な勉強をした方がいい」
 と思っている人もいて、歴史から距離を置く人も少なくないだろう。
 それでも、歴史を忘れられずに、また帰ってくる人も、多いのではないかと思うのだった。
 歴史に一度惹きつけられた人は、そう簡単に抜けられないのは、
「その奥の深さにあるのではないか?」
 と思うようになったからだと思うのだった。
 梶原も歴史の勉強をしていて感じるのは、
「好きな時代を切り取って勉強しているのはいいが、歴史は続いているので、好きな時代だけを切り取るというのは、ある意味不可能なんじゃないか?」
 と考えるようになった。
 まるで、
「地下鉄は、どこから入れたんだろうね?」
 という漫才のネタに、その真意が隠されているかのように思うのだった。
 そんな歴史と、勧善懲悪というものは、切っても切り離せないものである。だから、時代劇のような、町内のヒーローとしての、
「水戸黄門」
 や、
「遠山の金さん」
 のような発想が、江戸時代という歴史上で、天下泰平の時代に生まれたのである。
 ただ、勧善懲悪には大きな問題がある。特に歴史という学問には、
「永遠のテーマ」
 と言われるものではないだろうか?
 というのは、
「歴史における善悪というものは、どこで別れるのだろうか?」
 という考え方である。
 それは、正義と悪との境目と同じことであろう。善の反対が悪であり、その悪の反対が、正義だとすれば、善と、正義は、同じ意味だと考えていいかも知れない。
 ただ、歴史認識や、その時代の支配者によって、歴史の事実というものは、捻じ曲げられてしまったり、事実とは異なる伝承が伝えられたりしていた。それは、歴史がクーデターの繰り返しであり、前支配者の歴史を捻じ曲げなければ、政権を掌握できないという場合があるからだ。
 例えば、江戸幕府などは、前政権である豊臣氏を滅ぼしての権力掌握だったので、豊臣政権時代のものをことごとく壊したり、豊臣政権時代の配下のものを亡ぼしたりと、
「現政権の維持」
 を目的とすることで、歴史認識を捻じ曲げるなどということは、政権が変わったら、普通に行われていることだ。
 だから、歴史上現存している書物であったり、建造物だけを見ていると、見誤ってしまうこともないとはいえない。それだけ歴史というものは難しく、解釈に困るのだ。
 ここ半世紀の間に、それまで信じられていた、
「歴史上の真実」
 とされてきたことが、
「実は違った」
 ということも多いだろう。
 歴史の善悪についても、だいぶ見方が変わってきている。
「今まで、悪人だとされていた人が、実は悪ではなく善であり、正義だとされていたものが、実は悪だった」
 ということも、言われるようになってきたのだ。
 歴史上の、悪という感覚に、さほど、変わっていないとは思うが、善、正義と呼ばれるものの解釈が時代によって変化したり、
「何をもって、善悪の対象とするか?」
 という考え方が変わったこと、さらには、発掘が進んだり、科学の進歩によって、今まで言われてきた発掘物のもっと正確な成立時期などが、新たになることで、解釈も変わってくるのだ。
 それらの歴史認識と、勧善懲悪の考え方というのは、矛盾したところが結構あるのだろうが、これからも現在進行形として進んでいく、科学の発展によって、変わってくる歴史解釈が、さらなる矛盾を産んでくるのかも知れないが、
「歴史の王道」
 と言われるような、常識というものの、根本的な解釈への変革が、本格的に行われる時代が近づいたのかも知れない。
 そうなると、歴史に世間の目がクローズアップされることになるだろう。そうなれば、
「にわか歴史ファン」
 なる連中が増えて、歴史に興味を持つ人も増えるかも知れない。
 にわかというのは、ありがたいことではないが、ブームが去った後に残った、ふるいにかけられた後に残った、本当の歴史好きが、元々よりも増えていれば、歴史ブームが来ることは悪いことではないだろう。
作品名:摂関主義宗教団体 作家名:森本晃次