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摂関主義宗教団体

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 ということになるのであるが、それが、身分の高いもの、たとえば、ここでいう水戸光圀のような、副将軍職であったり、ジャッジするための権力を与えられた人間である。当時であれば、町奉行や寺社奉行と言った、奉行職の人間に任せた物語を作るというのは、当然の流れではないだろうか?
 梶原という男に、まだ大学生ということもあり、勧善懲悪をつかさどることのできる権力や、その職を一任された立場にいるわけではないので、自分でできることをするしかなかった。
 それが、時として過激な発言になったり、公開での晒しものとするような行動に出ることに繋がるのだった。
 ただ、勧善懲悪というのは、ある意味、矛盾を秘めている感覚でもあるような気がする。あくまでも、日本人の一般的な感情によるものであるが、その一番の要因としては、
「日本人は、判官びいきだ」
 と言われるところである。
 判官というのは、
「律令制における四等官の第三位の官」
 のことだと言われていて、まあ、階級のようなものだと言ってもいいのだろうが、その中で、一般的に知られているのが、
「九郎判官」
 であろう。
 九郎というのは、源義朝の九男ということで名づけられた幼名で、謂れは義経である。
 源義経というと、いろいろな伝説が残っている。子供時代の牛若丸伝説であったり、逃亡生活期における、弁慶による、安宅関での、
「勧進帳」
 の伝説など、いくつも残っている。
 その中でも、平家との戦においての、鵯越における、
「逆落とし」
 さらには、平家滅亡の場所となった、壇ノ浦の合戦における、
「八艘飛び」
 の伝説など、平家物語や、吾妻鏡、源平盛衰記などと言った歴史書には残っているのである。
 それらの中で描かれている義経というのは、
「悲劇緒ヒーロー」
 であった。
 平家滅亡を夢見て、戦をするために生まれてきたとまで言われた義経が、その大願成就を果たして、兄の頼朝の待つ鎌倉に、
「凱旋」
 したにも関わらず、そこの途中で、足止めされ、
「それより東に入ってはならぬ」
 と言われ、必死の説得や言い訳もかなわず、結局京都に戻り、今度は頼朝に反旗を翻すことになった。
 そもそも頼朝の考えとしては、
「東国武士をまとめ上げている自分の許しなしに、勝手に朝廷から、官位を貰ってはいけない」
 という決まりを破り、後白河法皇から、検非違使に命じられたことが、頼朝の怒りを買ったのだった。
 頼朝がどこまで本気だったのか分からないが、東国武士の長として、勝手な振る舞いをすることは、兄弟といえども、許されることではない。示しがつかないのだ。
 それでも、義経がそのことを理解し、謝ってくれば許しもしたかも知れないが、理由が分かっていないということが、頼朝には許せなかったのだろう。それこそ、
「いさかいの火種になる」
 と考えたに違いない。
 義経本人にその意識はなくとも、浅知恵の義経が利用されて、御家人同士の争いになりかねないと思い、災いの種は、早めに経っておかなければならないと考えたのだろう。
 自分も、清盛の恩情で命を助けられ、助けた相手から滅ぼされることになる平家を思うと、災いの根を絶たなければいけないことを一番肝に銘じているのは、当の頼朝なのだろう。
 ただ、義経側から考えると、
「兄のために命懸けで戦って、その恩賞を法皇からもらえるというのに、それを断るのは、失礼に当たる」
 と思ったのだろう。
 逆に自分がもらうことで、源氏の勢いが増すと思えば。兄は許してくれるはずだと思ったに違いない。立場の違いがここまでの交わることのない平行線を描かせ、それによって、いずれ全国に幕府の権威をもたらすことになるのだが、頼朝は最初から分かっていたのかどうか。(頼朝なら分かっていた気がする。なぜなら、まわりの腹心に、時代を読める人間がいたのだから)
 どちらにしても、悲劇は義経の側にある。あっという間に天国から地獄に叩き落された青年は、朝廷と幕府の間の思惑に、まんまと利用されただけの、
「戦の天才」
 いや、
「戦においては、神同様」
 だったのだ。
 ただ、すれ違いというのは、恐ろしいものだ。最初、奥州から義経が伊豆に馳せ参じた時の最初の面会で、頼朝が、
「お前だけが頼りだ」
 と言った言葉にウソはないだろう。
 確かに馳せ参じてくれた護憲人たちに同じセリフを吐いていたという話だが、兄弟思いだったことは間違いないようなので、その言葉は真意だったことだろう。
 それなのに、立場が変わればここまで違うというのは、ある意味悲劇である。
 頼朝は、元々流人であったものが、東国武士に祀り上げられる形で、
「頭領」
 となるのだが、そこには、烏合の衆である連中を結束させる象徴としての権威が必要だった。
 それゆえに、権威を絶対的なものにしなければならない宿命を帯びていることから、譲れない立場があったのだ。これを犯してしまうと、頭領ではいられなくなり、やがては、集団は仲間割れを起こし、収拾がつかなくなるのが目に見えているからだ。
 そのためには、見せしめを作り、その人物を人身御供にするかのようなやり方も辞さないことで、
「地盤を築く」
 ということが、最大の目的だったのだ。
 だから、実際の平家討伐を弟たちに命じたのだ。
 もう一つ、鎌倉に残った理由には、奥州藤原氏に、背後から襲われるという危惧もあったからだ。
 鎌倉を留守にしている間に、奇襲を掛けられてしまうと、どうしようもない。まだ、体制も盤石でもない、ただの地方勢力の一つにしかすぎない鎌倉だったからである。
 そういう意味においては、義経が鎌倉の意図を理解できず。鎌倉と敵対したおかげで、朝廷に、
「義経追討の院宣」
 とともに、諸国に、守護、地頭を置くということを認めさせたのだからである。
 守護、地頭を各地に設置したのが、1985年。今まで、
「いいくにつくろう鎌倉幕府」
 として、幕府成立年が、1192年だということを誰もが信じて疑わなかったことが、今では、
「それは違うのではないか?」
 ということを言われるようになり、実際には、
「守護、地頭を諸国に設置し、武家政権を、全国に波及させたこの年を、鎌倉幕府の成立年とする」
 という、
「1185年成立説」
 が、今では最有力となったのである。
 つまりは、義経という、鎌倉方から見れば、
「反逆者」
 というべき、男の存在が、武家政治を諸国に示すことになり、幕府の全国統一に大きな貢献があったのだとすると、義経の存在は、幕府方には、ありがたかったと言ってもいいだろう。
 そういう意味では、義経は、
「兄に誤解されて。最後は打ち取られた悲劇のヒーロー」
 という側面よりも、
「幕府勢力の成立のために、犠牲になった悲劇のヒーロー」
 というのが、本当の見解なのだろうが、どちらにしても、悲劇のヒーローであることに変わりはないのだ。
 鎌倉時代というのは、封建制度の始まりである。それを確立させたのが、頼朝率いる東国武家集団だということであれば、朝廷だったり、東国武士を知らない義経などは、相当混乱し、そこには、旧態依然の体質を考える連中との軋轢が、かなり激しかったのではないだろうか?
作品名:摂関主義宗教団体 作家名:森本晃次