摂関主義宗教団体
今の先生の話を聞いてみて、何となく分かったような気がした。先生がこういう隠微なたとえをする時というのは、歴史と向き合うことで、自分の中の血液が逆流するような興奮に襲われるのかも知れない。
確かに先生の言う通り、いろいろな学問は、それぞれに、関わり合っているというのは感じたことがあった。
だから、歴史に絡むような話しは好きだったが、それは、線で結ばれただけで、その学問全体を好きだというところまでは、到底いかない。それでも、別の方向から歴史を見ることができるというのは新鮮で、それがあるから、勉強するのが楽しいというものだと感じていた。
歴史の勉強をしていると、以前先生が講義の中で言っていたように、
「歴史は、人間の感情が、極限まで歪んだ時、歴史を動かす力を持った人間が、歴史を動かそうとしたその時、動くものではないだろうか?」
と言っていた。
「歴史の中で、力のない人間は、歴史を動かすどころか、自分のことだけで精一杯なんだ。だからこそ、歴史を動かせる人間というのは限られた人間だけだといえるだろう。だが、そんな人間も集団になると、力を持つことができる。それが革命であり、クーデターであったりするんだ。そういう意味でいくと、革命やクーデターというのは、いい悪いの問題に関係なく、勉強するのって結構楽しかったりするだろう?」
と言われたものだ。
「だから、僕は歴史が好きなんだ」
と、自分で納得していた。
ちなみに、学問。勉強全般で、自分で納得できた学問は、歴史だけだった。
興味を持って勉強してみようというジャンルはあったが、納得できるところまではいかなかった。
そういう意味で、好きな科目というと、歴史以外はないといってもいいだろう。
歴史の話に花が咲いている間に、先生の話が、少し宗教かかってくるのが分かった。
普通だったら、
「宗教とは関わりたくない」
という思いが強いので、適当に聞き流せばいいと思うのだが、先生の話を聞いていると、どうもそういうわけにはいかないようだ。
「我々が研究したのは、藤原摂関家だったんだけど、日本の歴史って、意外と、その補佐役だったり、代理のような人が、政治の執務を行うということが多いと思わないかい?」
と言われた。
「ええ、確かにそれはいえるかも知れませんね。聖徳太子の摂政から始まり、平安時代の藤原摂関家、そして、これはちょっと違うかも知れないが、白河天皇が始めた院政だったり、鎌倉幕府における北条氏の執権など、権力者の補佐をするものだったり、戦争の時に参謀役を担う軍師であったりと、結局、人間一人では何もできないということを証明しているかのように思えるんですよ」
と梶原は言った。
「確かにそうだよね。だから、協力して生き抜くということが歴史を作っていくということになるんだろうけど、歴史って、あくまでも結果論だろう? 誰もが、自分が歴史を作っているなんてことを考えているわけではない。権力を持った一部の連中が、歴史を作ることができるところまで来ていることから、自分たちが歴史を作っているという意識になるんだろうね」
というのが、先生の話であった。
「たとえば、絶対王政の国だって、王様一人で何でもできるというわけではない。独裁者にも、自分を守る人がいて、政治を行う人がいて、それで成り立っているんですよね。独裁者は、いつも、誰かに殺されるかも知れないという恐怖と背中合わせだったということを聞いたことがあるけど、あれも、当然といえば、当然のことなんでしょうね?」
と、頷きながら梶原は言った。
「でも、世の中には絶対という言葉は存在しないというので、その裏返しが、果てしない不安になるというのも分からないまでもないですね」
と、竹本先生がいったが、
「確かにそうなんですけど、だからこそ、まわりに親衛隊を作って、安心しようとするんでしょうね」
と、梶原がいうと、
「だけどね、一歩間違えると、フランケンシュタイン症候群のようになりかねない。だから、果てしない不安と背中合わせなのではないかと私は思うんだ」
と、竹本先生は言った。
「フランケンシュタイン症候群というと、理想の人間を作ろうとして、悪魔を作ってしまい、その悪魔が、いつ人間を支配しないとも限らない、いわゆる、ミイラ取りがミイラになるというイメージのあのお話ですか?」
と聞くと、
「ええ、そうです。聖書の中にも、バベルの塔の話のように、人間が背伸びをして、神に近づこうとしたり、神の領域に踏み込もうとすると、痛い目に遭うという教訓めいたお話ですね」
と先生は言った。
「そうですね。人間は神様ではないんだから、できることは限られていますよね。でも、人間の脳は、一部分しか使われていない。残りの部分を使える人がいるとすれば、それが超能力者だという人がいますけど、先生はそうだと思いますか?」
と梶原が聞くと、
「その通りだと思うよ。何も、神だけが万能ではない。もし、人間を作ったのが神だとすうと、人間の中にも、神に限りなく近い能力を持つ力を授けてはいるが、脳の中に封印しているのではないかと思うと、その理由はどこにあるんだろうね?」
と、今度は先生が聞いてきた。
「自分が作った人間を恐れてた? でもそれだと、それこそ、神様のフランケンシュタイン症候群ですよね?」
と聞くと、
「そう、その通りなんだよ。人間は神が作ったと言われるでしょう? じゃあ、神は誰が作ったんだろうね? まるでタマゴが先か、ニワトリが先かの議論のようだけど、そうやって考えると、神を作ったのも、人間なんだよ。だから、神視線で人間も見ようと思えば見ることができる。だからこそ、フランケンシュタイン症候群という考えが生まれたんだろうね」
と先生がいうが、
「本当に禅問答のようですね。それこそ、昔、漫才であったけど、地下鉄はどこから入れた? という発想を思い出しましたよ」
というと、
「結構、古いのを知っているんだね? 昭和の良き時代の漫才だったけどね」
と、先生も少し酔いが回ってきたのか、ニッコリ笑っている。
「結構、昭和の時代が好きだったりするんですよ。歴史が好きなのは、そのあたりからきているのかも知れないです」
というと。
「あなたの場合も私と同じように、時系列だけで歴史を見ようとしないところが気に入りました。確かに、過去があっての現在であり、現在があっての未来なんだけど、それだけとは言い切れないところがあるような気がするんです。そのあたりを、少しゆっくりと考えてみたいと思うんですよ」
と、先生はいうのだった。
「そうですね、僕もこういうお話をするのは結構好きなので、楽しみです」
というと、
「先ほどの、私が言った。絶対というのは、この世には存在しないということですけどね?」
と先生が聞いてきた。
「はい」