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摂関主義宗教団体

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「一体どうすればいいのか?」
 まったく考えが及ばない。
 そんな宗教団体にすればいいのかも、見当がつかなかった。
「どこかの有名な宗教の、広がった流派の一つということにしようか?」
 とも考えたが、そもそものその宗教の趣旨が分かっていないので、下手なことをすれば、元々の宗教を敵に回すことになる。
 今は、ネットが普及しているので、
「エセキリスト教」
 や、
「エセ仏教」
 などと言われて、注目されれば、せっかく目立たないようにしているのに、自分から注目を集めようとしているようなものである。
 かといって、完全な新興宗教だとすれば、まったく経典もないのに、どうすればいいのか?
 まったくの架空であれば、
「経典の存在しない宗教ということにもできるのだが、それは、目立つことにならないだろうか?」
 自分たちは、宗教団体でなければいけないというわけではなく、組織からいかに逃れるかということを考えていたので、いかにごまかすかだけを考えればいいだけなのだった。

                 摂政関白

 この宗教団体は、摂関教と呼ばれる団体だった。集団としては、
「摂関研究部」
 というサークル名で、やっていることは、歴史の研究であった。
 特に平安京に造詣が深く、桓武天皇が藤原京から、平安京に遷都した時から、江戸幕府が滅亡して、首都を東京に移すまでの、約1000年ちょっとの間、都が京都にあった間の研究である。
 歴史では、平安時代から後は、武家政治が中心なので、学校の授業などでも、
「平安文化」
 として習うのは、平安時代の約400年くらいであろうか。
 それでも、武家の時代が、600年であるのに比べて、平安京が政治の中心だった時代の長さというところであろうか?
 平安京の都が、途中少しだけ、平家によって神戸の福原に移された時期があったが、異本的にそれ以外は、朝廷がある都として存在していた。ただ、南北朝時代には、吉野にも南都があったという歴史はあるが、本来の都は、平安京である。
 歴史でも表舞台としては、京都に都があった時、桓武天皇の遷都から始まって、鎌倉に幕府が開かれるまでは、京都は表舞台だった。
 だが、室町幕府も平安京の中に幕府が存在したが、その弱体ぶりはひどいもので、応仁の乱においては、京都の街が、焦土となっていたのだ。
 その後すぐに戦国時代に突入し、
「京に上って天下を統一」
 という群雄割拠がひしめく中で、織田信長が覇権を握り、クーデターによって、流れた天下を、羽柴秀吉が握り、天下を統一。
 秀吉は、京都に近い伏見で政治を行っていたので、平安京内ということではない。
 徳川時代になると、政治は、江戸に移るので、実際に京都がクローズアップされるのは、幕末である。
 尊王攘夷運動が始まってから、長州、薩摩・幕府の争い、それが、薩摩長州が手を握ることで、幕府が孤立する。
 戊辰戦争の勃発が、鳥羽伏見ということで、この時だけ、少し京都がクローズアップされるが、すぐに、東京となった江戸に、遷都が行われることになるので、京都というのは、
「古都」
 ということになったのだ。
 平安京というと、皆が平安時代しか思い浮かべないのは、
「政治の中心が、どこなのか?」
 という問題からであった。
 元々平安京が落ち着くまで、都がどれほどいろいろなところに移ったかを考えると、
「よくも、1000の都ができたものだ」
 と言ってもいいだろう。
 元々、飛鳥にあった都だったが、栄えたのは、厩戸皇子(聖徳太子)の時代であり、その後の時代まで、蘇我氏が絶大な権力を握っていた。
 それを、
「乙巳の変」
 というクーデターによって、蘇我氏を滅亡させ、中富鎌足、中大兄皇子らによる、
「大化の改新」
 が始まったことで、世情は混乱してくる。
 まず、都を、飛鳥から、難波に移した。その時、朝鮮半島の情勢がおかしくなり、新羅と高句麗の連合軍によって、百済が攻められた時、朝廷に助けを求めてきた。
 それを中大兄皇子が、
「百済とは貿易の面で優遇しないといけない」
 ということで、朝鮮半島に軍を送ることにしたのだが、それが大敗を喫し、全滅してしまう。
 軍を出す手前もあり、都を筑紫に移したのだが、大敗してしまったことで、都をまた、飛鳥に戻したが、
「もっと奥地に都を置かないと」
 ということで、琵琶湖のほとりの大津に置くことにした。
(途中、信楽にも都があった時期があったが)
 60年くらいの間に、何度遷都をしたことだろう?
 その間、朝鮮情勢に首を突っ込んでしまい、危うい状況に日本を陥れたことで、大化の改新もなかなかうまくはいかなかった。
 基本的には、律令制の基礎になるものだが、ほとんど浸透しなかったといってもいいだろう。
 そんな時代から、藤原京を経て、奈良の平城京へと移ることになるのだが、奈良時代というのは、疫病などが流行ったりと、混乱に混乱を極めたものだった。
 聖武天皇による、大仏開眼や、道鏡の登場などと、その背景には、疫病や飢饉で、都が乱れたことにあった。
 その間に、力をつけてきたのが、中臣鎌足を祖とする、藤原氏だったのだ。
 都は、長岡京から、平安京へと移る。
 律令制の普及において、国家の役人が増えたことで、都が、長岡京では賄えなくなったのだ。
 満を持して登場した平安京が、1000年の都になるのだが、誰が、そこまで続くと、当時の人間は想像したことだろう?
 平安京に移っても、決して問題が解決したというわけではなかった。
 飢饉や天候不順は定期的に起こり、
「死者が、そこらへんに転がっていて、死者から衣類は金銭を巻き上げるなどという、いわゆる罰当たりなことが、平気で行われていた時代」
 だったといってもいいだろう。
 ただ、平安京は、基本的に貴族の文化。その文化において、いわゆる国風文化というものが根付き、ひらがななどのような文字が発達したおかげで、文章が残せるようになった。
 紫式部や清少納言のような、
「宮中文学」
 が流行るようになり、和歌などと、歌合せなども、頻繁に行われたようだった。
 そんな時代に、政治を見ていたのは、天皇の補佐役だった、藤原氏だ。
 藤原氏は、
「天皇に変わって政治を行う」
 という形の地位である、
「摂政関白」
 という地位を世襲していた。
 実際には、みかどと呼ばれる天皇がいて、その下に、藤原摂関家があるというわけである。
 特に、藤原道長、頼道の時代には、藤原氏は栄華を極め、道長に逆らうと、朝廷内での地位を失うという時代になっていた。
 その後、武士の時代になっても、その権力は朝廷内では大きなもので、秀吉が、天下を統一して、征夷大将軍にはなれないということから、藤原氏の養子となり、関白になったというのは、有名な話である。
 藤原道長は、紫式部とも関係があり、紫式部が宮中で力を得られたのは、道長のおかげだったといってもいいだろう。
 そんな藤原摂関家、朝廷の中で巨大な権力を持っていて、天皇とも。昵懇であり。天皇も、藤原氏には頭が上がらないというところであった。
 そんな藤原氏を研究しているのが、
「摂関研究部」
 であった。
 つまりは、
作品名:摂関主義宗教団体 作家名:森本晃次