入らなければ出られない
「俺たちは、一度も喧嘩なんかしたことないからな」
と男がいうと、
「そうね」
と女性がニコニコしながら答えたとする。
男の方は本音であり、喧嘩がなかったのは、二人の相性がよかったのか、それとも、自分がうまく相手を引き付けているのかということを考えているのだろう。
しかし、女性の方は、
「何言ってるのよ。私の方が歩み寄ってあげているから、今まで喧嘩にならずに済んだんじゃないの?」
と思うだろう。
女の方で、歩み寄れるだけの力が私にはあるんだから、
「何も相手は、あんたでなくたっていいんだ」
と、思っていたとすれば、女性側にはかなりの精神的な余裕があるので、まだうまくやっていけるかも知れない。
しかし、
「何を好き勝手なこと言ってるのかしら? 私がいなければ、何もできないくせに」
と、思われると、精神的な余裕がなくなっていることから、別れる可能性は高いのではないだろうか?
大学時代までは、二人とも精神的に余裕があったが、就職してからというもの、お互いにそれどころではなくなり、余裕などどこに行ってしまったというのだろう?
特に、マサハルの方が追い詰められているようで、五月病のようなものに掛かり、本当はその寂しさから、かすみを頼りたいと思ったのだが、精神的に辛い時は、逆に、
「もし、かすみが、自分のしてほしいと思っていることをしてくれなかったら、却って、辛いだけだ」
と思ったのだ。
今までの、かすみはといえば、本当に、
「痒いところに手が届くようなタイプであり、何も言わなくとも、何でも気づいてくれる。言い方は悪いが、都合のいいところがあった」
と思っていた。
日ごろから、かすみのことを都合のいい女だと思ってきた証拠なのだろうが、かすみも、今までは、
「それでもいい」
と思っていた。
都合のいい存在を相手に与えられる、そんな女性になったと考えると、
「そんな女性が、大人の女性なのではないか?」
と感じるようになった。
だから、相手に尽くすことは、自分が大人の女であることの証拠だと思うようになると、相手に対して逆らわない、三行半の女性が、大人の女性ではないかという、時代錯誤とも思えるような考えを持っていた。
最近は、その考えに疑問を抱くようになった。大人の女ということへの定義に疑問を抱いたわけではない。昭和のような考え方に、疑問を覚えたのだ。
しかし、平成から令和にかけて、かなり急速に考え方が変わってきている。
「偏っている」
と言ってもいいかも知れないが、そのスピードにはついていけないのだった。
だが、それでも、自分が感じた、
「大人の女」
というものに対しての疑問の方が大きかったので、次第に、心がマサハルから遠ざかっていった。
だが、遠ざかるまでもなく、お互いに距離は遠いままだった。
「このまま、自然消滅してしまえばいいんじゃないか?」
と思えた。
だが、そんな気持ちは、相手に伝わるものなのか、連絡のない間に、これ幸いと、かすみの中で、マサハルに連絡をしないという行動は、気休めのようなものだったが、
「自然消滅に繋がりそうだ」
という楽天的な考えになってくるのだった。
だが、自然消滅というのは、想像しているより楽なものではない。ある意味、お互いに無意識であっても、タイミングを合わせなければいけないところがある。なぜならば、
「自然に、違和感なく消滅する」
ということを前提にしているからだ。
お互いの歯車が噛み合わないと、必ず、どちらかの力が強くなる。そうなると、強い方は、弱い方を引っ張るという理屈は当たり前のことであり、それが、中心をずらしてしまうことになる。
中心がずれると、バランスが崩れてきて、力の弱い方が、なぜ引っ張られるかということに気づいてしまうと、自然消滅では済まなくなる。
消滅させることが不可能であれば、抹殺するしかない。消滅であれば、まわりに迷惑はかけないが、抹殺ともなると、
「いずれは、自分も」
ということで、力関係の均衡が壊れてしまう。
そうなった時、今度は今までまったくかかわりのなかった人から、謂れのない誹謗が向けられることになるのではないか?
あるいは、村八分にあってしまったりして、気が付けば、孤立してしまっている。そうなった時、ストレスがマックスになってしまうのではないかと思うのだった。
マサハルは、かすみからの誹謗をどう考えるであろうか?
誹謗というと、陰で、こちらが分からないように、悪口を言ったりする場合に使われる言葉で、
「誹謗中傷」
などと使われえる。
今の時代は、ネットの普及で、SNSなどによって、一人が誹謗し始めると、次第に文句をいう人が増えてきて、集団意識によるものから、誰もが一人の意見に群がるように、支持し始めるのだった。
「本当は俺も文句言いたかったんだよな。それを、言い出してくれたおかげで、俺たちも言える」
というのが、集団意識だ。
「赤信号、皆で渡れば怖くない」
などという言葉が、そのまま集団意識として言われるようになるのだ。
だが、世の中には、
「言い出しっぺの意見が、必ずしも正しい」
と言えない場合もあるだろう。
一人が言い出して、
「俺も、俺も」
と言って、皆がハイエナのように群がってきて。しかし、実際には最初に言い出した人の言い分が正しかったというわけではないと判明すると、きっと、クモの子を散らすかのように、皆立ち去ってしまい、そこに取り残された人間が、まったく悪くもないのに、そこにいたというだけで、ひどい目に遭ってしまう。
最初こそ、皆で盛り上げようとしても、その道が間違っていたと知ればクモの子を散らしてしまう。だが、誰もが、自分が最初に逃げ出したいと思うことで、その場はパニックになることだろう。そのままいれば、自分が犯人にされてしまう可能性。あるいは、流れ弾が当たってしまって、命を落とすことがあるくらいである。
しかし、最初から、傍観者として眺めていれば、逃げ遅れることはない。だが、逃げる必要がない時は、到底真ん中に居座ることもできない。
「見極めさえできれば、いいだけのことではないか」
と考えるのだが、これだけまわりにたくさんの人がいれば、自分だけが見極めたとして、思うようにいかないのが、関の山である。
かすみは、相手がマサハルくらいだったら、
「周りに惑わされることなどない」
と思っている。
マサハルは、かすみが、
「自分から遠ざかろうとしている」
と考えるようになっていた。
それは、被害妄想のようなものがあるのかも知れないが、実は、自分が仕事に馴染めないという理由をつけて、なかなかかすみと会おうとしないことから、
「かすみが何か不審がっているのではないか?」
と、感じたのかも知れない。
そのうちに、マサハルは五月病と呼ばれるものに罹っていた。まったく会ってもいないし、なるべく連絡を取ろうとしなかった、かすみには、そんなことは、まったく分からなかったのだ。
ただ、五月病に罹ってしまったマサハルは、人恋しいという気分ではなかった。
実際の五月病というのが、どのようなものなのか、ハッキリとは分からなかったが、
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次