入らなければ出られない
「大学時代と、社会に入ってからのギャップに気づいたことで、その隙間を何とか埋めようとして、もがく時に感じる、精神的なショックのようなもの」
と言ってもいいだろう。
確かに人恋しくないと言えばうそになるが、相手が、同じ同級生であれば、皆同じ環境なので、話を聞いてもらえるかも知れないが、自分がそのショックから逃れるための役に立つとは思えない。むしろ、皆自分の主張をすることで、その醜さを思い知ることになるのではないかと思うのだ。
では、大学生だったら、どうだろう?
もっとハッキリと、受け入れられるものではない。なぜなら、自分がもう大学を卒業しているからだ。
大学を卒業し、社会に出たからギャップを感じているのであって、いまさら大学生の中に入っても、現実逃避でしかないし、戻ることは許されないことがハッキリしているのであるから、大学生は羨ましく見えるだけで、嫉妬の対象でしかないではないか? と思えてくるのだった。
大学を卒業することができたから、ここにいるのだ。大学受験を終えて、大学生になった時とは違うのだ。
そんなことは最初から分かっていたはずだ。
四年生になって、就職活動を始めた時、
「働かなくてはいけないんだ。もう大学生ではいられないんだ」
ということを分かっていて、しかも、そんな本当はもっと遊んでいたいという気持ちを打ち消して、就活をしなければいけない。
「就職できなければ、どうなるのか?」
想像しただけでも、恐ろしい。
今の時代は、成績がよくても、有名大学を卒業できても、就職できない人がいる。どんなに有名大学であっても、就職率、¥が100%なんて、聞いたことがないだろう。
もちろん、有名大学に入れば、大企業を目指すというのは当たり前のことで、例えば、
「東大を出ていて、マグロ漁船に乗っている」
という人の話を聞いたことがあるだろうか?
「職業に貴賎なし」
という言葉があるが、この場合のマグロ漁船というのは、俗語としての意味である。
つまり、
「どんなに優秀であっても、上の下であれば、中の上にはかなわない場合がある」
と言えるのではないだろうか?
マサハルはそれほど優秀ではなかったが、性格的に律義で真面目なだけに、一度思い込んでしまうと、なかなか立ち直れなかったりする。それが、
「融通が利かない」
と言われるゆえんであり、なかなか、まわりから受け入れられる性格でもなかったのだ。
それを思うと、マサハルは、ある意味ここまで、順風満帆に来ていたようだ。
だからこそ、かすみも、
「この人なら」
と思って付き合うようになったのだ。
マサハルという男の性格は、嫌いではない。どちらかというと、
「男に尽くすタイプ」
と言っていいかすみだからこそ、マサハルのような堅物でも、うまく行っていたといってもいいだろう。
そういう意味では、
「大学時代であれば、これほどお似合いのカップルはいないかも知れない」
と、目立たなかったが、それだけに、皆から、変なウワサを立てられることもなく、平静に見えていたに違いない。
マサハルとかすみの間に、マサハルの、
「五月病」
という問題が出てきた時、気を遣って、話をしようとしなかったかすみは、もし、全体を見ることができていれば、
「あれが失敗だったのかも知れない」
と、その時のことを悔やむに違いない。
ご乱心
五月病というのは、一種の鬱病のようなものだといってもいいだろう。それまで何をやってもうまく行っていた人が、急に歯車が狂って、何をやってもうまく行かなくなるような感じが、五月病ではないかと思える。
五月病には、大学時代を思い返して、
「あの時はよかったな」
と思いふける場合もあるだろうが、会社で上司から、
「まだ、学生気分が抜けていないのか?」
と、罵声を浴びせられることもある。
そんな時、
「社会に出てから、右も左も分からないのだから、上司が導いてくれないと」
などと思っていると、余計に、深く入り込んでしまうのではないだろうか?
会社の人間というのは、そんなに甘くはない。特に、大学を出てからすぐの新入社員は、「学生気分が抜けない」
ということは分かっている。
なぜなら、自分が経験者だからだ。
それにしても、自分が言われたりされたりして嫌だったと思うことを、数年も経たないうちに、してしまうのだろう? 非常に不思議な気がするのだ。
世の中には似たようなことが多い。
例えば、子供の頃は、よく親を中心とした大人から嫌な思いをさせられた時、
「自分が親になったら、決してそんなことは言わない」
と思うはずだ。
そして、
「あんな大人、親には絶対にならない」
と誓ったはずなのに、自分が親になると、子供の頃に感じた思いをすっかり忘れて、自分の親が自分に言ったことをソックリそのまま、自分の子供に言っている。
「大人になって、子供のことを思うからいうんだ」
と大人になった自分がいうだろう。
しかし、子供を叱る時、少しでも、自分が子供の頃に親に対して感じたことを、少しでも思い出しているだろうか?
どちらかというと、子供が煩わしいので、叱りつけることで、自分の権威を見せつけることで、有無も言わさずに、従わせようという意識でしかないのではないだろうか?
そんな大人になった自分を、子供の頃の自分が見て、何と思うだろう?
きっと、
「大人になんか、なりたくない」
と思うに違いない。
そもそも、大人になって、何がいいことがあるというのか。結婚して、子供ができて、母親は、子供ができれば、生むまでが大変で、生まれてきたらきたで、寝る暇もないくらいに育児に大変だ。
共稼ぎともなると、男も家事を手伝わなければいけない。イライラして、子供を自分たちの気分で、叱りつけるようなそんな家庭、
「なるほど、子供がトラウマになるわけだ」
と言っても過言ではないだろう。
五月病というのが、
「大人になるために、通らなければいけない壁だ」
というのであれば、大人になることの意義がどこにあるというのだろう?
親になって子供を一人前にする? そのために、会社で馬車馬のようにこき使われて、行きたくもない接待をさせられ、家族からは、
「家庭を顧みない」
と言われる、昭和からの家庭もあれば、平成以降は、そもそも結婚を考えない。結婚しても、成田離婚する。
子供ができたとしても、それは、
「できちゃった婚」
であり、子供を人質に、結婚しなければならなくなっただけのことである。
結婚が本当に、人生における幸福の絶頂なのかと言われると、
「結婚は人生の墓場だ」
と、昭和の頃から言われていたように、絶頂なわけはないだろう。
結婚すると、一人の女に縛られる。家族を養っていかなければいけない。子供ができると、子供に対して責任が生まれる。ちょっと、浮気心を起こそうものなら、修羅場となる。
そんなものは、人生の絶頂だといえるのだろうか?
確かに、結婚することで、家族を持ち、一人前の男として、まわりから認められる。
「だから何だというのだ?」
大体、一人前の男というのはどういうことなのか?
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次