入らなければ出られない
ミステリーの探偵と、恋愛小説における、不倫相手であったり、不倫された旦那であったりなどのキャラクターを生かせるような描き方は非常に難しい。
「それができるくらいなら」
と、いつも考えているのだった。
「いずれは、プロになりたい」
という思いは心の中に持っている。
だが、プロになってしまうと、
「自分が描きたいものを思うように描けなくなるのではないだろうか?」
という思いが強くなってくる。
これは、小説家というものが、昔から抱いている永遠の悩みのように思えていたが、それはマンガ家においても同じことである。
ただ、これも、才能や実力がなければ、誰にも認めてもらえず、嫌でも、アマチュアでしかないのだ。
だが、アマチュアであっても、マンガを描くことはできる。今の仕事に不満があるわけではない。基本を仕事において、趣味として、自分の人生の幅を広げるという意味で、マンガを描くということは普通にありだった。
最初の頃。
「マンガを描きたいな」
と思ったのは、
「絵を描いていてもいいのだが、絵はどこまで行っても、平面でしかないが、マンガであれば、そこにストーリーという別の次元の発想が生まれてきて、それは、新たな二次元半とでもいうような次元を作ることができるのではないか?」
と、考えたのだ。
今の時代における、
「2.5次元」
という考え方とは少し違うものではないだろうか?
2.5次元という世界は、
「イラスト・アニメ風2次元の世界と実際の人間・実写による3次元の世界の、何らかの狭間を指す単語である。2.5次元とは、2次元的なイメージの3次元への投影か、またはイメージ自体の錯覚的・部分的な3次元化に適用される。ただし、一般には人物または人格が存在するイメージにしか適用されない」
というものらしい。
つまりは、精神的なものや、憧れのような要素があるというべきなのだろうか?
かすみの考える、
「二次元半」
というのは、絵とマンガの間に、ストーリー性という、動的な発想が入ってくることで、三次元ではない、動的要素を証明しようという発想なのであった。
この考え方は、小説を、ドラマ化するというような発想にもつながってくるようで、ただ、そうなってくると、2.5次元という世界とも、切っても切り離せない世界に入っていくのではないかとも思えるのだった。
そういう意味で、マンガと絵画、マンガと小説というそれぞれには、次元の狭間のようなものが存在するのではないかと思うのだった。
マサハルの仕事は、かすみが思っているほど、うまくいっているわけではなかった。どちらかというと、仕事はうまくいっておらず、上司からも、あまりよくは思われていなかった。
無難にこなしてはいるのだが、融通が利かないところがあり、うまく言えば、自分で満足できないところが、変にストレスを抱える形になってしまって、前に進んでいかないのだ。
上司からは、そういう部下はあまり好かれない。融通が利かないということは、ある意味、言われたことしかしないということであり、上司からすれば、
「子供の遣いじゃないんだから、自分で考えて動いてくれないと」
ということになるのだろう。
子供の遣いというと、たまに付き合った女性から、
「あなたは、まるで子供の遣いのようだわ」
といわれたことがあった。
それがどういう意味なのかよく分からなかった。しかし、相手から言われた、
「子供の遣い」
というのは、ただ、
「子供だ」
といわれたのと同じだと思えてならなかったのだ。
上から見下ろされているように見えて、その時だけは、自分が見下されていることに本当は腹が立ったのだが、言われていることがもっともだと思えてしまうと、こみ上げてくる怒りや憤りのもって行きどことがなかったのだ。
小学生の頃は女の子から、歯にものを着せないい方をされたものだが、中学時代以降は、相手も気を遣ってか、あまり強い皮肉は言わなくなった。
「これが大人の考え方なのだろうか?」
と感じた。
だから、自分も、小学生時代までのように、相手に非がある場合でも、強めに言わないようにしていた。下手に思ったことをそのまま言ってしまうと、気が付けばまわりが敵だらけになりそうで、怖いのだった。
そもそもマサハルに営業のような仕事ができるはずがないと、かすみは思っていた。だから、
「あなたが、営業って、大丈夫なの?」
と、就職期間中によく言ったものだ。
「大丈夫さ」
と、短く一言いうだけだった。
その言葉には、どこか剣があり、煩わしいと思った時に相手にいう言い方なのだろうが、それが短いこともあって、どこまでの気持ちなのか分からない。そのせいで、怒っているのかどうなのか、想像もつかないようだった。
だが、これだけ短いと、そもそも融通か利かない性格のため、怒っているのは、目に見えて明らかなことだった。
だが、マサハルは、自分でも、何に対して怒っているのか分からない。だからこそ、怒りを表に出したいのに、出せなかった。誰に対しての怒りなのかもわからなかったからだ。
誰か、決まった相手に怒りをもって、その人に対して怒れるのであれば、理屈に合うような気がした。しかし、決まった相手というわけではなく、マサハルは、それが分からないことでの、自分への怒りだと思うと、理解できる。
ただ、理解はできても、納得できるわけではない。それが営業というものだった。
相手は、こちらの足元を見て商談してくる。いかにうまく商談できたつもりでいても、相手がだますつもりでいれば、こちらは信じるつもりなので、コロッと引っかかってしまうのだ。どこにあるのは、
「交わる平行線」
であった。
平行線というのは、交わることがないといわれているが、どちらかが作為を持っていれば、交わるのだ。それは、境界線を、結界だと思い込み、そこから先がないものだと勘違いするからではないだろうか?
結界というのは、あくまでも自分の理屈で定めたものなので、人が介在しているものには、影響を及ぼさないのである、
だからこそ、
「交わることのない平行線」
であっても、交わることがある。
交わらないのは、同じ次元や空間に存在するものであって、人の心というのは、そういう意味で、同じ次元や空間ではないのかも知れないといえるのではないだろうか?
人間関係などというのは、一歩間違うと、まったく噛み合わなくなるもので、特に男女間というのは、結構、大きかったりする。
特に、よく言われるのが、
「さっきまでは、自分のことを分かってくれる、一番の理解者だと思っていたのに、一歩歯車が狂うと、これ以上辛い相手はいない」
とことになるというのだ。
これこそ平行線であり、うまく行っている時は、隙間なく重なっていることで、すべてがうまく行くのだが、それが少し崩れてしまうと、永久に交わらないものとなってしまう。
だから、仲のいい男女であったり、夫婦が、簡単に別れてしまうというのは、この平行線が、永久に交わることはないとお互いに感じることで、別れに繋がるのではないだろうか?
付き合いが長かったカップルも、危ないかも知れない。
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次