入らなければ出られない
「その小さな子供を誰が見るのか?」
ということになる。
そうなると、保育所ということになるのだろうが、
「待機児童」
などという問題になってくると、今度は、子供を産んでも育てられないということになり、
「少子」
になってしまう。
政府も、女性の職場での活躍の場を設けるという問題と、少子高齢化という問題を一緒に考えなければならず、この矛盾した問題をいかに解決するのかが難しいところである。
そうなってくると、小説界にも、恋愛小説の中での純愛などというものが、
「本当にウケるのか?」
ということになってくる。
それどころか、そんな純愛のようなものが、
「存在するのか?」
ということになってくると、小説で、純愛系の恋愛小説を見つけるのは、結構大変になってくるだろう。
何しろ、ほとんど存在しないものを書くのだから、想像して書くことはできても、果たして読む人がいるのだろうか?
ということである。
ただ、アマチュアであれば、それもありではないか? プロになって、出版社との二人三脚で本を売るということが至上命令となっているのであれば、なかなか出版化というのは難しいだろう。
アマチュアであれば、そんな制約はない。作家の想像だけで、いくらでも書ける。ネットの投稿サイトであれば、いくらでも発表ができる。もちろん、倫理に反していなければである。
そういう意味では、愛欲系の小説の方が、不倫であったり、異常性癖であったりと、アブノーマルな小説だったりすることで、倫理的には危ういものが多いのではないだろうか?
そうなると、R―18なる、設定にして、官能小説の中に入るのではないだろうか?
官能小説という文学は、実は結構難しいものだと言われる。
「小説の書き方」
のようなハウツー本の中には、いくつかのジャンルの小説の書き方が書かれているが、その多くがミステリーや恋愛小説のようなものが教材となっているが、その中に、官能小説も入っている。
何と言っても、いくら、R―18にしたとしても、制約はいくつもある。いわゆる、
「放送禁止用語」
なるものは、使用してはいけないだろうし、それこそ、放送倫理に近いものだといえるだろう。
そもそも、放送禁止用語というものは、倫理的にアウトだというだけで、法律で裁かれるものではない。逆に、憲法で守られている、
「表現の自由」
を盾にすることもできる。
だが、逆に同じ憲法にある、
「基本的人権の尊重」
「法の下の平等」
というものに抵触する場合は、裁判などで争われることが多いだろう。
判例として、どちらが強いのか難しいところであるが、少なくとも、大衆ウケは絶対にしないということは間違いないだろう。
そんな事情もあってか、典子は、小説では、恋愛の愛欲を描くようになった。
マサハルの五月病
かすみは、マサハルの仕事の方が落ち着いていないということもあって、マンガの方に少しずつだったが、のめり込んでいった。そのマンガは、ミステリーを描くようになっていた。
「ミステリーであれば、小説の方がいいのでは?」
と思ったが、その頃には妹の典子が小説を書いているということを知っていたので、いまさら小説に舵を切りなおすという気にはならなかった。
「私はあくまでも、マンガを描くんだ」
と思っていた。
最近では、マンガを描いても、マンガ用の投稿サイトも増えてきて、発表の場が増えてきた。しかも、マンガは、
「日本独自の文化」
だということもあり、小説を読む人口よりもはるかに多い。それだけ、大衆に愛されているといってもいいだろう。
ただ、そのせいもあって、
「自分の作品が、埋もれてしまうということになりはしないか?」
という問題が、当然のごとく存在した。
確かに本屋にいけば、文庫本もたくさんあるが、それ以上に、マンガは相当な数ある。
小説は、昔の本も結構あり、文庫本の中には、マンガを文庫化したものもあり、それらのコーナーもあったりする。
マンガの場合は、小説に比べて、最近の作家が多いのではないか? もっとも、小説も、最近読まれるのは、ケイタイ小説であったり、ライトノベルと呼ばれるような、青春小説や学園もののような、
「気軽に読める小説」
が多いのかも知れない。
逆にマンガの方が最近は、いろいろなジャンルもあり、そのせいもあってか、地上波などでドラマ化されるものの原作は、ほとんどといっていいほど、マンガだったりする。ワンクールに何十作品もがドラマ化されるが、小説を原作とするものは、1、2作品くらいではないだろうか?
それだけ、マンガの世界が、かつての小説の世界を侵食しているといえるのではないだろうか。
逆にいえば、文字を読む習慣がなくなってきたというのか、
「ビジュアルに訴える」
という形が強くなったといってもいいだろう。
別に、マンガを否定するつもりもないが、少し寂しい気はする。何と言っても、小説というのは、
「想像力のたまもの」
であり、文字だけだと、自分で勝手に想像できることで、その幅が広がるというのは、小説の醍醐味だったはずである。
それがマンガになると、どうしても、作風は、絵のタッチに左右されてしまう。劇画調であったり、少女漫画的な描き方であったり、ギャグ漫画の様相を呈した絵のタッチは、作家の印象を深めるもので、だから、逆に、作家の書くキャラクターが決まってくると、最初に発表した。あるいは、読者の立場から見れば、最初に読んだマンガというものの印象が強くなるだろう。
例えば、
「最初に見たものを、親だと思い込む」
という鳥のような性質である。
それを思うと、
「マンガを見ていて、変な錯覚を起こさないだろうか?」
と思うのだ。
一人のマンガ家が描くものは、いろいろなジャンルがあるが、タッチは変えることはできない。
中には、強引に変えようとしている人もいるかも知れないが、あくまでも強引なやり方であって、うまくいくものかどうか難しい。それこそ、
「二兎を追う者は一兎をも得ず」
ということわざのように、ならないとも限らないし、人によっては、
「器用貧乏」
という言葉があるように、
「二刀流」
などに手を出して、結果、うまく使われるだけ使われて、結局損をするのは、自分だということになりはしないだろうか?
ただ、さすがにプロの人は違うようだ。同じタッチで、まったく別ジャンルでも、違和感を、読者に与えないというテクニックとして考えられるのは、
「どのマンガにも、主人公の印象が強烈に刷り込まれている」
ということであった。
主人公の顔が似ているとしても、まったく違うマンガであれば、衣装も違うし、性格の違いから、逆に別人だということを確立できるようで、それをうまく使えるのが、プロの漫画家ではないかと思うのだった。
「残念ながら、自分にはできないな」
と、かすみは感じていた。
同じジャンルで、主人公を同じにするのであれば、結構描けるのではないかと思うが、これはジャンルが違えば自信がない。
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次