入らなければ出られない
これは、逆に、風景画と違って、実際に見る光景では、別におかしくは見えない。見えるのは、絵であったり、写真であったりするというのだ。
つまりは、
「風景画と人物画では、三次元と二次元とでは、見える感覚が違う」
ということであろうか?
人物画や写真を逆さに見た時、異様に感じるという効果のことを、
「サッチャー効果」
と呼ばれている。
これは、かつての、イギリスの首相であり、
「鉄の女」
と呼ばれた、マーガレット・サッチャーの写真で見た時に、言われるようになったことであるというのだ。
このサッチャー効果というのは、
「局所的な変化の検出が困難になる」
という特徴からの錯覚だと言われている。
科学的に証明されていることなのかどうかは、諸説あるのだろうが、あくまでも学説なのではないだろうか?
ただ、言えることは、二次元と三次元の発想において、広範囲を見る場合と、局所的に見ていく場合で、錯視が生まれてくるということになるのではないだろうか?
それゆえ、サッチャー効果のことを、
「サッチャー錯視」
とも言われているのである。
これが、一つのバランスの問題だとはいえるのではないだろうか?
さて、もう一つは遠近感であるが、遠近感は、前述のバランスの問題との絡みもかなりあるといってもいいだろう。
遠近感というのは、そのまま普通に解釈すれば分かることだろうが、
「立体と平面」
という問題が絡んでくる。
つまり、遠近感というのは、別に表に出さなくとも、バランスの問題の一部として解釈することも可能なのだろうが、かすみの中では、
「遠近感というものを特別扱いするだけの理由が存在するのだが、それがどこから来ている発想なのかということまでは分かっていない」
ということであった。
それが分かってくると、絵画と、マンガの考え方の違いが分かってくるようになる気がしていたのだった。
次女の典子
三宅家の次女は、典子という名前であった。彼女は、大学の三年生で、姉のかすみと同じ大学に通っていた。
姉のかすみが、商学部だったのに対して、妹の典子は、文学部に在籍している。今年三年生ということは、来年には、就職について考えていかなければならないのだが、今のところ典子の選択肢としては、二つあった。
一つは、今は趣味としている小説執筆であるが、
「いずれはプロを目指したい」
という思いから、今のところ、そちらの方が最有力候補というところであろう。
大学一年生の時、ある出版社の新人賞に応募し、大賞は逃したが、入賞はした。
それが、彼女にとっての最初の投稿作品だっただけに、有頂天になってしまったのも無理もないだろう。
実際にまわりも、
「すごいじゃないか? 初投稿で入選なんて」
と言ってくれた。
姉のかすみも喜んではくれていたが、それが本心かどうか、典子は怪しいと思っていた。
かすみと典子の姉妹は、それほど仲がいいというわけではなかった。
こちらかというと、仲がいいわけではなかった。
得てして、兄弟や姉妹というのは、さほど仲がいい方が目立つので、仲がいい方が多いような気がするのだが、実際はどうなのだろう?
かすみも典子も自分の友達や知り合いで、同性の兄弟がいる人は、その仲があまりよくないと言われている人が多いようだった。
実際に、子供の頃からを思い出しても、仲がいい、兄弟や姉妹は、ほとんど見たことがない。
だが、いがみ合っているような姿を見たというわけではないだけで、仲が本当に悪かったのかどうかは疑問であるが、ハッキリと分かっているところであれば、
「仲がよく見えていた兄弟であっても、ちょっとしたことでひずみができて、喧嘩になったり、修復不可能に近い状態になることすらあった。
子供の頃に仲たがいしてから、いまだに口も利かない兄弟もいるという。
「仲がいいからこその喧嘩だ」
と言われることが多いが、その通りなのかも知れないが、それは、言葉の使い方が違うような気がする。
「仲がいいから喧嘩になるのではなく、相手の気持ちがわかりすぎるくら分かるので、あざといこともすぐに分かる。そのようなわざとらしさを、兄弟であるがゆえに、許せないのだ」
と思っているのではないだろうか。
それを思うと、
「血の繋がりなんて、一体何なのだろう?」
と思うことがある。
相手のことが分かりすぎることで、埋めることのできない結界だってあるのかも知れない。
まるで、
「帳簿の誤差の原因を調べる時、誤差の数値が少ないほど、見つけにくい」
と言われているのと同じではないか?
プラスマイナスが影響する帳簿の世界なので、数値が小さいほど、細かいプラスマイナスが影響しているからこそ、このような複雑な形になるのであって、
「それを解明するのは、一から計算しなおさないと難しい」
ということなのであろう?
つまり、姉妹兄弟の関係なんてそんなものなのかも知れない。確かに基本的には、仲がいいというものなのかも知れないが、それだけに、一度こじれるとお互いの気持ちが分かるのか、お互いに相手が怖いのだ。まるで、すべてを見透かされているかのように感じると、どうすればいいのか分からなくなり、結局、前にも進めず、後ろにも下がれないという、まるで、吊り橋の上で、まったく身動きができなくなってしまったかのようである。
攻撃にも守りにも転じることができない場所にいるということは、そのすぐ近くに、結界が存在しているということなのかも知れない。
結界というのは、自分でもよく分かっていないものであり、見えないだけに厄介だ。そのくせ存在だけは分かっているので、攻略する必要性と含めて、十分に検討する必要がある。それだけに、姉妹兄弟の間の争いは、難しいのではないだろうか。
誰がそこに入り込んでも、それは他人であり、しょせんは表からしか見えないのだ。
だから、
「兄弟の争いなんだから、そのうちに仲直りするさ」
と言って、他人事になるしかない。
もっとも、当事者も、他人の干渉を願ってはいないだろう。他人との喧嘩や争いであれば、場合によっては、他人の干渉によって、仲裁してくれることを願うこともあるだろうが、身内であったり、兄弟間の争いに関しては、他人の干渉を受けるのを嫌がる人もいるに違いない。
この二人の姉妹にもそんなところがあった。
「姉妹なのに、似ていないわね」
と、子供の頃から言われていた。
それは、顔が似ていないというわけではなく、性格的なものが似ていないということだった。
どうかすれば、正反対のところもあり、他人に言わせればそういうことになるのも仕方がないだろう。
それゆえに、他人から、
「似ていないわね」
という余計なことを言われてしまったことがあったので、余計に姉妹関係において、仲裁に入られたりなどするのを拒むのは、このあたりに原因がある、
そう思って考えるから、余計に、姉妹間のように、近しい存在ほど、こじれてしまうと、どこに原因があるのか、他の人とこじれてしまった時よりも分かりにくいというものがあるのだ。
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次