入らなければ出られない
最初から素人を師匠として描く人はいない。そうなると、雑誌に連載されている作家のタッチを自然と真似るのは、人間の本能、いや、本性だといってもいいのではないだろうか?
これは小説家でも同じだろう。文章が似てくるのも、プロが見れば、すぐに分かるというものではないだろうか?
ただ、マンガなどは、一目でわかるものなので、見た瞬間の印象がそのまま見た人の印象として入り込んでしまったとしても、無理もないことだろう。
かすみが、実際にマンガを描こうと思うようになったのは、いつからだったのか分からないが、高校生に頃には、マンガ家になりたいという、確固たる意志を持っていたのは、確かだったようだ。
ただ、どんなマンガを描きたいのか? 最初はよく分からなかった。だから、いろいろなジャンルを少しずつ、そして満遍なく描いていくうちに決まってくるのではないかと思ったのだ。
高校に入ると、マンガを描きたいと思っている連中も意外と多く、マンガ部なるものが存在したのは、かすみにとっては、幸運だったのかも知れない。
もちろん、マンガ部と言っても、いろいろな人がいる。
いずれはマンガ家を目指すという人が、半数近くであろうか? 他には、ただ絵がうまいと言われていたが、自分の絵が、絵画とは違うという発想を持っている人や、
「自分で、物語を描きたい」
と意識はあるが、文才があるわけではないが、マンガだったら描けるかも知れないと思った人だった。
以前、美術部の人に一度聞いたことがあった。
「絵画って、目の前のものを忠実に映し出すだけで、俺には何が面白いのか分からないんだけど、一体何がそんなに惹きつけるものがあるんだい?」
と聞いてみると、
「絵画は決して、目の前のものを忠実に描き出すだけではないのさ。俺は、絵画や芸術を、個性だと思っている。つまり、モノマネがいかにうまくできるかなどという低俗なところにとどまっているわけではないと思うんだよ」
というではないか?
「じゃあ、個性でいろいろ変えていると?」
と聞くと、
「そうだよ。それも、見ている人には分からないところを大胆に省略してみたり、意外な手法で描いてみたりね。それを、真似て描いているだけだと思って見ている連中がたくさんいればいるほど、俺の勝ちだと思っているのだ」
というではないか。
そして、さらに彼は続けた。
「例えば、どこかで個展を開いたりするだろう? その時って、何十から、何百という作品を展示することになるよね? その時にだって、作品を適当に並べているわけではない。並べるには、そこに作者の思いが結構あるのさ。当然中には、時系列に沿って並べている人もいるだろう。だんだん作家の腕がよくなってきたり、今の個性に近づいてくるのが分かるからね。だから、それも個性なんだよ。だけど、そうじゃない場合って、作者の意図が必ずそこには含まれていて、作者なりの理由があるはずなんだ。そう考えると、絵描きというのも結構面白いだろう? だがら、絵画というのは、ノンフィクションでありながら、架空性を秘めているという意味もあって、俺は個性だって思うんだよな」
と言っていた。
その人は、将来美大に進んでいったが、さすがにすごい人だと思っていた。
だが、高校時代に美術部に所属していて、真面目に絵画に打ち込んでいた人は、話を聞いてみると、ほとんどの人が、似たような話をしてくれた。
「結局は、個性なんだな?」
と思うと、他の芸術と呼ばれるもの、小説であったり、音楽、それらのものも、個性がその実力に大いに影響を与えるのだと思えたのだ。
マンガにしたってそうだ。
小説を書いている人には、マンガというのは、どうもあまりよくは思われていないようだ。
「マンガというのは、視覚によって、人間の気持ちを誘導するものであり、絵のタッチによって大いに、内容も変わってくる場合があるだろう? 似たような内容を描く人が数人いても、絵のタッチがまったく違っていたり、逆に、似たようなタッチであっても、ジャンルがまったく違うなどという人もいるだろうからね。でもどうなんだろう? 絵のタッチがジャンルに合う合わないがあるんだろうな? そういう意味では、読む人の感覚は同じ作家に対して、まったく違う対照的な意見があったりするんじゃないかな_
と、小説家志望の人が聞いてきた。
「それはあるかも知れないよね。でも、小説には絵による錯誤はないから、完全な想像力によるよね? だから、想像もできないような小説は、小説であって、小説ではないと思うのは、ちょっと失礼かな?」
「そんなことはないよ。だから、小説を書くというのは、結構難しいものなのさ。マンガや絵画が、減算法のような考えだったら、小説は、加算法といってもいいかも知れない。何しろ、まったく何もないところからというのは同じでも、描写においては、言葉だけで想像させるには、言葉をいかに駆使して想像させるかだからね」
というではないか?
絵を描くことと、マンガを描くことはまったく違う。絵を描くことで、重要なことは何かというと、
「バランスと、遠近感だ」
と考えていた。
バランスというのは、例えば風景画にしても、人物画にしても、配置という問題がある、風景があれば、
「水平線の位置をどこに持ってくるか?」
であったり、人物画であれば、それこそ顔のパーツのバランスが、その人の顔、そして表情をいかに映し出すのか? ということが大切だからである。
また、このバランスにおいて、かすみは、独特の考え方を持っていた。
それは、
「上下逆さまに見る場合って、どういう風に見えるのだろう?」
という感覚であった。
水平線を考えた時、分かりやすいのは、海と空が見えるような砂浜から、海を見た場合である。
普通に見ると、水平線が自分の視界の中間くらいにあったりするのではないだろうか? もちろん、絵に描いても、忠実に描くのだから、当然、そういう感覚になるはずである。
しかし、ここから不思議なのだが、上下逆さまに見ると、空が果てしなく広く、海が小さく見えてくるものだった。ここは個人差があるのかも知れないが、普通に見た時と、逆さから見た時、それは、天橋立で有名な、
「股覗き」
に近い感覚である。
だが、これは当然だが、絵を逆さにしても、見える光景は、
「ただ、ひっくり返しただけで、水平線がずれるような感覚はない」
と言えるだろう。
では、なぜこんなことが起こるのだろう?
かすみの考え方としては、
「実際の光景が立体であるのに対し、絵というものが、平面であるからではないか?」
ということである。
これは錯覚であり、立体的なものを見た時、人間は平衡感覚を保とうとする本能があるので、股覗きなどをすると、
「その時に、脳に刺激が与えられるか何かして、錯覚を及ぼすのではないか?」
と考えるのであった。
ということになると、今度は、もう一つの疑問が出てくる。
今のは風景画であるが、人物画において、絵を逆さまに見た時、まったく違ったものに見えるという心理現象があるという。
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次