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入らなければ出られない

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「相手の言葉を信じて疑わない人」
 なのである。
 気が弱い人は、相手の言葉を信じるしかないのだ。それは、
「自分が信じられない」
 からであり、自分を信じられる人は、まず、相手が信じられる人かどうかというのを、もし、詐欺でなかったとしても、初めての人であれば考えようとするのに、それができないのは、自分のことを考える余裕がないからだ。
「自分のことばかりの、ジコチューな人と、どっちがたちが悪いのだろう?」
 と真剣に考えてみたりした。
 やはり、自分のことを考える余裕もないから、自分が信じられないのであり、ジコチューが迷惑を掛けないのであれば。そっちの方がまだマシなのかも知れない。
 マサハルも、かすみも、大学を卒業するまでは、ほとんど意識もしていなかった。それは、お互いに学生時代に彼氏、彼女ができて、ある意味、
「一人前だ」
 という意識があったからだ、
 特にかすみの方は、
「学生時代に、誰とも交際をせずに、社会人に出ることは、学生時代を無為に過ごしてきた証拠だ」
 と思うほどだった。
 これは、かずみの方が気持ちとしては大きかった。確かに、他の人と同じでは気に入らないと思っていたかすみだったが、絶えず、その気持ちを四六時中持っているわけではなく、
「基本的な考え方」
 ということであった。
 それこそ、四六時中、人と同じでは同じだと思ってれば息が詰まる。そもそも、人と比べるということは、
「人のことを理解しなければ、及ばない考えだ」
 ということなので、人と何が同じで何が違うかを見極めるために、一度は相手の懐に入らなければどうしようもないということだ。つまりは、
「入らなければ、出られない」
 という理屈に繋がってくるのである。
 だから、かずみは、そういう意味でも、
「すべてという言葉を、100%という言葉はイコールではない」
 と思っている。
 それは、
「すべて」
 という言葉には、伸びしろがあるという意味である。
「100%」
 というと、そのものだけのパーセントという意味であり、すべてという言葉には、その件に関わること、そのすべてを含んで、
「すべて」
 と呼ぶのだ。
 だから、パーセントにすれば、100%ではなく、120%、いや、150%になるのである。
 そういえば、昔のアニメに、宇宙戦艦ものがあったが、そこで、その戦艦の必殺兵器がエネルギーを充填する時、100%ではなく、発射に必要な割合は。
「120%」
 だったので。
「どうして、120%なんだろう?」
 と、そんなことを考えることが無駄だと思いながらも、疑問として残っていたが、今この時考えた。
「すべてと100%というものは違う」
 と考えた時、その理由が分かったような気がした。
 アニメの原作者が同じ思いを持ってマンガを描いたのかどうかは分からないが、このように考えてみると、発想が膨らんでくるようで、もし、そうだったのだとすれば、ゆっくり話をしてみたいものだった。
 そんなことを考えていると、
「私もマンガか小説を書いてみたいものだわ」
 と、かすみは思うようになっていた。
「仕事も少し落ち着いてきたし、マサハルさんは、まだまだ大変そうだから、今の間にやりたいことをやっておくのもいいかも知れないわ」
 と思うようになっていた。
 絵に関しては、小学生時代から、実は結構好きだった。誰にも言っていなかったが、小学生の頃、一時期であるが。
「マンガ家を目指してみたいな」
 と感じたことがあった。
 あくまでも、一人での妄想であったが、それでも、マンガ入門なる本を読んでみたりして、自分なりに研究してみた時期があった。部屋は小学生の頃から、自分の部屋が与えられていたので、密かに何かを始めることもできた。だが、さすがに小学生では、実際にやってみようというところまでは気持ちが進んでいないのも事実で、結局、中途半端な状態になってしまったのだった。
 マンガ家を目指してみたいと思ったが、何をどうしていいのか分からない。
 まずはとりあえず、素人から出発して、本やネットで、ハウツーを勉強するというところくらいまでは考えがついたが、そこから先は、お金がかかることに関わってくるだろうから、せめて、学校で美術部か、マンガ関係の部活でもあれば、ということで、高校に入ると、最初は美術部に入部したが、
「どうも、堅苦しい感じがする」
 と感じた。
 というのは、美術部で習ったことは、確かに絵を描くということに関しては必要なことだ。
 特にキャンパスの上にいかに描くかということでいえば、バランス感覚と、遠近感などについての、いわゆる昔からあるやり方を忠実に教えてもらうという感じであった。
 だが、それはあくまでも、
「マニュアル」
 であり、
「誰にでも当て嵌まるような、ありきたりな表現に過ぎない」
 というものである。
 つまり、自分のやりたいようにするというゆおな、創造性というものに欠けるものがあるのだ。
 マンガと絵画では、基本的に違うもののような気がした。
 絵画はあくまで、目の前にあるものを忠実に描くものであって、一枚の絵に凝縮される。いわゆる、
「静止画」
 と呼ばれるもので、マンガの場合は違う。
 四コマ漫画にしても、雑誌に連載されているものにしても、基本的にストーリーが存在し、描いたものが流れているという、
「動画」
 とイメージして作るものである。
 それが、パラパラ漫画のようなものになり、それがアニメーションとして発展してきたのだとすれば、こちらは絵画からの派生ではあるだろうが、あくまでも、別の次元で発展してきたものだといってもいいだろう。
 ある意味、言い方を変えると、
「やっと時代が、マンガやアニメに追いついてきたのだ」
 と言ってもいいのではないだろうか?
 絵画は、基本的に目の前にあるものを忠実に映し出す。つまり小説でいえば、ノンフィクションである。
 しかし、マンガは、断罪によっては、実際にあったことも含まれるだろうが、基本的には、架空の感覚、フィクションと言っていいだろう。
 ただ、一つ気になるのが、マンガはいくらフィクションであり、想像豊かなものであるとは言いながら、その描き方には、一定の法則のようなものがある。
 そのため、例えば人の顔のタッチなど、基本的に誰かに似てくるというのも仕方のないことなのかも知れない。
 それも、漫画の種類、ジャンルによって違う。
 ギャグものであったり、恋愛もの、ハードボイルドやサスペンスのような劇画調のようなもの。
 つまり、作家に個性はあるが、マンガ家を目指して描く時、人は自然と誰かの描き方に似てくるのだ。
 それは、作家を目指す時、たいていの場合、誰かを師匠として、
「こんなマンガ家になりたい」
 と思って、その作品を見ているうちに、自然とタッチが似てくるものである。
 考えても見れば、毎年、マンガ家を目指す人がコンクールに数多くの人が出品してくるのだから、同じようなタッチになっても仕方がないだろう。しかも、それがジャンルに別れていると、そのジャンルごとで実際に成功している人は、一握りしかいないのだ。