入らなければ出られない
ホッとしたのは、仕事を自分なりに覚えてきているという自覚があったからで、それが余裕に繋がってきたのだろうが、一抹の不安を感じたのは、余裕というものが、仕事を覚えられていることに対してだけ感じているということを分かっていることで、気持ちが微妙なところにいる。それが、一抹の寂しさとして残ったのだろう。
だから逆に、マサハルのことを、
「マサハルのために」
と思っている自分がいじらしく感じられた。
いじらしく感じられる自分が、微妙に感じる自分を補ってくれるような気がしてきたことで、自分が何を求めているのかということを考えようと思ったのだが、思いつくわけもなかったのだ。
そんな後悔と微妙な気持ちで、孤立を感じていた、かすみに対して、マサハルが電話をくれたのだ。
いきなりだったので、ビックリした。
それが嬉しかったことには変わりはないが、その嬉しさも、また微妙な感じがしたのだ。何が微妙なのかというと、実際に自分でも分からない。
「かすみちゃん、元気だったかい?」
と、受話器の向こうから、籠った声が聞こえた。
「ええ、何とかね」
と、微妙な気持ちを表すかのように、答えたが、その気持ちが相手に伝わっているだろうか?
伝わっていたとしても、いなかったとしても、どちらでもいい気がした。彼が解釈することだから、自分には制御はできないと思ったのだ。
普通だったら、自分の中に確固たる気持ちが存在し、その気持ちとは裏腹な解釈をされると嫌だと思うものなのだろうが、実際にはそんな発想ではなかった。
「どっちだと思ったとしても、私にとっての損得は今の自分では、分からない」
と感じたのだ。
それよりも、
「今、私、彼との会話の中で、感情に損得勘定が入っているんだ」
ということを感じてしまったことが、おかしな気がした。
恋愛に損得勘定などはないものだと思っていて、むしろ、損得で考えるようになると、それは、危険信号なのでは? と感じていたのだった。
二人はまだ恋愛に入っているのかどうかも、微妙で、まだ入り口に差し掛かったくらいではないか?
「そもそも、恋愛関係に入ったというのは、何をもってそう言えるのだろう?」
正直、かすみの今までの感覚からすれば、それは、
「身体の関係になってからだ」
と思っていたので、今のところ、彼とは恋愛関係に突入しているわけではなく、一種の予備軍と言っていいだろうということであった。
かすみは、
「結婚と恋愛は別のものだ」
と考えるようになっていた。
最初の頃は、皆と同じように、
「恋愛の延長が結婚なんだ」
と思っていたが、そこに何の根拠があるのかということを考えると、
「結婚が本当に幸せなのか?」
とも、感じられ、結局、
「恋愛と結婚は別だ」
と思うようになった。
だから、恋愛をした人に対して、結婚したいと本当に思えるのかどうか、疑問でもあったのだ。
特に最近、かすみは、ある言葉に疑問を感じるようになった。
最近ではあまり聞かないし、言われなくなった言葉なのかも知れないが、自分が子供の頃、親からよく言われていたのは、
「平凡でいいから、人並みの幸せを持てればそれでいいのよ」
という言葉であった。
「平凡? 人並?」
と言葉を聞いて、すぐに疑問に感じた。
それだけ、曖昧で抽象的な言葉なのだ。
「平凡と人並って、どこが違うんだろう?」
と考えた。
今の言葉を聞くと、人並みの中に、平凡という言葉が入っているような気がした。諸時期、この二つを並べて考えたことがなかったので、曖昧に同じような意味のことだと思っていたが、こういう言い方をされれば、人並みという大きな器の中に、平凡が入っているということになるのだろう。
しかし、言葉のニュアンスでは、平凡という言葉の方が、幅が広いような気がしていた。となると、どちらかが錯覚となるのだろうが、どう解釈すればいいのだろう?
自分が、結婚というものに疑問を感じるようになると、マサハルも、どこか、結婚したくないオーラがあったことを思い出した気がしてきた。
その思いに間違いはなく、結婚を人生の墓場とまで思うようになっていたようだった。
もちろん、皆が皆だとは思わないが、決して、
「結婚が人生の墓場だ」
という言葉を笑うことができない立場にいるのだということを、マサハルは感じているのだろう。
かすみの方は、
「人並みの幸せ」
という言葉に疑問を感じるようになってきた。
最初は絵画から入って、今はマンガを描いている。自分の中では迷走しながらも、曲がりなりにも、趣味としては、かなり真面目に取り組んでいる気持ちになっているのだった。
そんな毎日に自分では充実感を持っていて、
「こんな毎日がずっと続けばいいのに」
と考えるようになった。
仕事は仕事で頑張っている。
「私は仕事に命を懸けている」
などというバカげたことを考えているわけではなく、
「趣味のマンガを頑張ることができるのは、仕事という気分転換があるからだ」
と思うようにすれば、仕事も苦痛ではないと思っていた。
そもそも、仕事を苦痛とは思わない。覚えるまでは、結構きついところもあったような気がしたが、実際にはそこまではないような気がした。
趣味との両立が、いい方向に相乗効果をもたらしている。これは、
「負のスパイラル」
という言葉の裏返しで、
「正のスパイラル」
と言ってもいいのではないか?
上昇気流と竜巻が一緒になったようで、一気に吹き上げられるような気分になっていたのだ。
気持ちにかなり余裕も出てきている。そんな状態で、一抹の寂しさに負けて、マサハルと会うとどうなるんだろう?
と考えている自分がいるが、これは、不安だらけの付き合い始めとは、違っていた。
かすみは、マサハルの精神異常、躁鬱症というのが、異常なのか、それとも、疾患なのかまでは分からないが、少なくとも自分を見失っている状況において、どのように接すればいいのか、考えなければいけなくなるという予感めいたものがあった。
だが、なぜそんな付き合い方や接し方をいまさら考えなければいけないのかという細かい理由を分かるはずもなかったので、この感情が、勘違いなのかも知れないという思いになっていることに疑問を感じていたのだ。
電話の声が籠って聞こえたというのも、一つの理由だろう。
そして、もう一つは電話で話しているマサハルを、
「本当にこの人、私が知っているマサハルさんなのかしら?」
と感じたことだ。
その意識の裏には、聞いたことのないような言葉がマサハルの口から電話を通して聞こえてきたことだ。言葉自体は聞いたことはあるが、
「まさか、その言葉を私が知っているマサハルさんの口から聞くことになるなんて」
という思いが強いことだった。
マサハルがどういう人なのか、ますます分からなくなってくるのだった。
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次