入らなければ出られない
「最初から仮説を立てて、それを矛盾なく考えていけばいいのではないか?」
と思うようにして、そこで立てた仮説が、
「鬱状態も躁状態も同じ」
だということであった。
だが、少し柔軟にも考えてみた。それは、
「昼と夜の長さが、年間を通せば一日一日微妙に違う」
ということだった。
ただ、それは地球に地軸という理由があるからのことであるが、もし、少し違っていたとしても、そこにはれっきとした理由が含まれているということを自分で納得できれば、それでいいと思うのだった。
だが、いろいろ考えてみると、やはり結論の、躁状態と鬱状態の時間の長さには変わりはないということであった。
違うと思うのは、自分の精神状態によるものであり、もし、どちらかが短くてどちらかが長いということになるのであれば、きっと、
「鬱から躁状態に変わる時に、予感めいたことが起こることはない」
と思うのだった。
ただ、そう考えると、最初に躁状態なのか、鬱状態なのかに入り込んでしまった時の長さは、そのスパイラルを抜けるまで、まったく同じだということを示している。そして、その状態に入り込む時も、抜ける時も、自分の知らない何かの力が働いているのではないかと思うのは、無理もないことなのだろうか? その時、思い出したのが、この、宇宙に創造された、
「邪悪の星」
の存在だったのだ。
躁状態と鬱状態がグルグル回っているのを、同じ宇宙の発想として、
「二重惑星」
と呼ばれるものを想像していた。
一つの恒星に対して、地球のような惑星が回っているのだが、その惑星は、ちょうど兄弟星のように、一定の軌道をお互いにグルグル公転しているという発想だ。
だから、片方の星が表に出ている時は、裏の星は隠れていて、逆の星が表に出ている時は、もう一つは隠れている。その時に、両方を観測することはできないというもので、二重惑星の存在は、公的に知られているわけではないということであった。
ただ、理屈的にはありえることなので、
「想像上の星」
ということを言われているが、これも、例の、
「邪悪な星」
と同じように、密かに宇宙に存在している星の中の、ごく一部なのだろう。
五月病の間に、陥った躁鬱状態になったマサハルは、一人の時間、孤独というよりも、一人でいることが、恐怖なのだということに気づいたのだ。
「孤独が怖いわけではない。孤独を誘う存在が、恐怖を感じさせるのだ」
ということを感じた。
躁状態と鬱状態が、交互にやってくる状態を、まるで、螺旋階段のように感じた。
一度上ってから、また下りてくる。それを繰り返している間に、若干でも上がっているのか、下がっているのか、それとも、現状維持なのか、まったく分かっていない。
だが、その謎を解くカギが、
「鬱状態から躁状態に抜ける時が分かるという、トンネルでの感覚が、その答えを誘っているのではないか?」
というものであった。
ということになると、
「普段の精神状態は、鬱状態よりも上ではないか?」
と思うのだ。
きっと、上に少しずつ上がっているのだ、上がっていることで、その本当の躁鬱からの出口に待っているのが、普段の精神状態なのだとして、徐々に上っていたのだとすれば、普段の精神状態というのは、
「躁状態よりも、鬱状態よりも上だ」
ということになるのだろう。
そう考えると、躁状態も鬱状態も、
「負の状態だ」
と言えるのではないだろうか?
それを考えると、
「負のスパイラル」
というのは、この躁鬱のスパイラルの先にあるものではないか?
と考えられるような気がしてきた。
スパイラルというのは、らせん、らせん状という意味だというではないか、螺旋階段のようにグルグル回りながら落ちて行ったり、上がっていったりするのは、まさに、躁鬱を繰り返している状況に似ている。そして、宇宙における、
「二重惑星」
の発想にも通じるものがあるのではないか?
そんなことを考えていると、自分が今落ち込んでいる状態も、ある意味、どん底に近く、後は這い上がるだけだと考えれば、その理屈も分かってくるのではないかと思えてきた。
「あと少しで、負のスパイラルから抜けられる」
と思うと、それまでの自分の生きてきたことや、生き様が走馬灯のように、巡ってくるのであった。
その中に、果たして、かすみはいるのだろうか?
マサハルはその中に、一人の女性を想像できたのだが、どうも、かすみではないような気がする、
その顔はシルエットになっていて、まるで、幼稚園や小学校で見た、影絵のようではないか? 完全なシルエットであるが、そこに光は感じない。いや、光を使って、影を作っているのだ。
「だから、邪悪な星とは違うんだ」
という意味である。
その女の子は、マサハルのことを癒してくれる。想像の中だけでの癒しであるが、顔を想像することはできなかった。
「想像できないのなら、創造してやる」
とばかりに、自分でも絵を描いてみた。
その時、
「俺って思ったよりも絵が上手なんじゃないか?」
と感じた。
今まで、かすみの絵やマンガを見て、
「上手だね、俺にはとってもできやしないや」
と言って、投げ出していたのを思い出したが、その時のかすみの顔が、
「あなたには無理よ。できるのはこの私だけ」
という風に見えた。
それはまるで、かすみが、自己顕示欲を高めるために、マサハルを利用しているのではないか?
という発想に似ていた。
「俺にだって、自己顕示欲はあるんだ」
と感じるようになっていた。
もちろん、かすみは、そんなマサハルの心境の変化に気づくわけなどあるわけはなかった。
マサハルの誘い
かすみと距離を置くことで、かすみに自己顕示欲の強さを感じた。
彼女は、自分に自信があるようにいつもふるまっているが、その時は、
「何て、自己中心的な性格なんだ」
と思っていたが、今思い返してみると、よく、他人に、自分をどう思っているかということだったり、自分がいかに見えているかということが気になって仕方がないようだった。
それだけ、自分に自信がないということだろう。
そういう意味では自己中心的だというわけではなく、自分に自信がないから、少しでもまわりに自分が強いと思っているということを思わせたいのかも知れない。
「俺と付き合っているのも、そういうことなんだろうか?」
と感じた。
確かに、自分のことを悪く言ったり、責めるような言い方をする人を自分の近くに置いておきたくないという気持ちが強いのは当たり前であろう。
そういう意味では、
「イエスマン」
をまわりに置いておきたいという気持ちは、
「猜疑心が強い」
というのとでは、どこかが違うのだろうか?
なかなか、心理学のことには、あまり詳しくないマサハルには、よく分からなかった。
さすがに心理学でも、自分に関係のあることは調べたりするが、他人に感じたことまで調べようとは思わない。
というのも、心理学というのは、あくまでも学問であり、統計によって、
「よくある症状」
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次