入らなければ出られない
皆、お母さんが迎えに来ていたので、まだ小学生の低学年くらいなのだろうが、どんどん皆減っていく中で、最後まで向かいに来なかったのが、マサハルだった。
なぜなら、マサハルは夢の中で、すでに大人になっていたのだ。
大人のマサハルを親が迎えに来るはずもない。
そんなことをしていると、夕方になってくる。西日が、まるで、ロウソクの消える前の勢いのように、強い光で刺してくる。トンネルを意識することによって、黄色い色が暗い色だと認識するようになったが、その前は、西日の黄色い色が黄色という色の力強さと感じていたのだった。
マサハルは、親が迎えに来ないことを分かっていて、一人で遊んでいると、次第に疲れてくるのを感じた。
汗もにじんでいる。
この時、自分が夢を見ているという感覚はなかった。なぜなかったのかというと、汗が滲んでいるのを自分なりに感じていたからである。
「夢というものは、味や感触、痛みなどを感じるものではない」
と思っているので、黄色い色も錯覚であり、夕日だということで、黄色いのだと勝手に思い込んでいるのではないだろうか?
だが、その時の夢はやたらとリアルで、まず、風が吹いてきて、滲んだ汗が風によって心地よく感じさせられる思いと、さらに夕方ということで、特に身体のダルさ。倦怠感を感じさせられるのだった。
そして、風の強さに逆らうように、身体が敏感になっていき、風邪を引いた時のような、けだるさと、肌寒さから、痛みもこみあげてくるのだった。
その思いが、痛みではなく、感覚のマヒを巻き起こす。指先が痺れていたり、何かにのしかかってこられるような感覚は一体どこから来るというのであろう。
その身体のダルさが、次第に、夜を感じさせるのだが、
「ひょっとすると、これは、躁状態から鬱状態に変わっていく時の、感覚なのではないか?」
と感じた。
これが、トンネルの出口と対象になっていて、夜がトンネルの中で、昼が、トンネルを抜ける時の前もって分かる時の表の明るさだと思うと、表の光を吸い込んでしまう夜というのは、恐ろしいものだと感じるのだ。
昔、天体学者が、
「まったく光を発しない邪悪な星」
というものを創造したということであった。
そもそも、星というのは、自らで光を発するか、光を発する星に照らされ、その光の恩恵を受けて光るかのどちらかである。つまり、物体があれば、光を持った星が光らせてくれるというものである。
宇宙という者は基本的に暗黒だ。
「だけど、地球は明るいじゃないか?」
という疑問を持たれる人もいるだろう。
このような疑問は確かに当然と言えば当然で、ただ、これはちょっと考えれば分かることである。
「そう、地球にはあるが、宇宙にないものを考えればいいだけで、それが何かというと、もうお分かりのように空気である」
ということである。
空気には、小さな塵などがあり、光がそこに触れて反射することで、光が見えるのだ。そう、水面に光が乱反射した時、見える光のようではないか。
そして、ちょっと考えれば分かるようなことでも、まずは疑問に感じなければ、永遠に知ることのない疑問である。それができるのは、当然人間だけだ。他の動物にはできないが人間にできることはたくさんあるのだが、その中で、
「疑問に思うこと」
というのは、人間の発展という意味では、一番大きなことなのかも知れない。
なぜかといって、疑問に思うこととして、人間が一番感じることは、
「その疑問が、科学や文明の発展には不可欠だ」
ということである。
疑問を持たなければ、興味を持つこともない。つまり、興味を持つことと疑問に感じることは、背中合わせではあるが、その二つが噛み合うからこそ、文明や化学の発展があるのだ。
「リンゴが木から落ちるのを見たニュートン」
「人間が浴槽に浸かった時に、水があふれたのを見た時のアルキメデス」
など、その時に、
「何でだろう?」
と思ったことが、いろいろな法則を発見させ、その法則に基づいて発展してきた文明の上に生きているのだ。
それを思うと、
「歴史というものは実に偉大だ」
と考えさせられることだろう。
余談となってしまったが、星というのは、自分からであったり、他力本願で光り輝いているからこそ、その存在を知ることができるのである。
だが、宇宙には、そんな星ばかりではないと提唱した天文学者がいた。
自ら光を発することもなく、光っている星の恩恵で、光るわけではない星の存在を創造したのだった。
つまり、他の星が光っていても、その光を吸収する星の存在である。
宇宙は暗いのだから、星自体が光らなければ、その存在は見えないままである。そんな星が宇宙に存在しているとすると、そばを通っても、その存在を見ることはできない。
真っ暗な夜道を歩いていて、まったく気配もなく、光もない人間が、前から歩いてくれば、どれほど不気味だというのだ。
それが宇宙という単位で存在しているというのだから恐ろしい。一つの星がどれほどの質量を持っているのかを考えると、
「もし、そんな星とぶつかったら?」
と想像しただけで恐ろしい。
相手は見えないだけに、その軌道もまったく見当がつかない。何しろ見えないのだから、捉えようがない。もし見つけたとしても、次の瞬間どこにいるか分からないのだ。
「ひょっとすると、人間のように、意思を持った星だったらどうだろう?」
その意思や本能で、見つからないようにしているのだとすれば、厄介だ。
「そんなマンガみたいなことはないだろう」
と言われるかも知れないが、そもそも、他の星とは違う性質を持っているのだから、意思がないといえるだろうか? カメレオンの保護色のように、自分を守るために、わざと見えないようにしているのだとすれば、人間との知恵比べにでもなるだろう。だから、このような星を創造した天文学者は、この星のことを、
「邪悪な星」
という分類付けをしたようだ。
最近のマサハルは、
「自分が、この邪悪な星と同じようなものなのではないか?」
と考えるようになったのが、鬱状態にあえいでいる時であった。
負のスパイラルに乗って、鬱状態の時というのは、絶えず、悪いことばかりを考える。つまりは、
「負の螺旋階段を回るようにして、落ちて行っているのだ」
と考えるようになったのだった。
「鬱状態と躁状態、どちらが長いのだろうか?」
と考えてみたことがあったが、結論としては、
「同じなのではないだろうか?」
という思いだった。
悪いことの方が、長く感じられたりするものであるが、実際に考えてみる時というのは、冷静になってからのことなので、躁状態の時に考えることである。
つまり、鬱状態というのは、考えている時には、
「遠い存在となっている」
ということなのだ。
遠くに見えるものは、えてして、長く見えるものなので、逆の作用からか、短く見積もってしまって見るくせがついている。そうなると、鬱状態も、意外と短いものなのかも知れないと思うと、実際に経験した時の長さがまるでウソだとでもいうのかという気持ちの反発を産むことになってしまうのだった。
それは、なるべく避けたいという考えから、
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次