入らなければ出られない
ということになるのだ。
鬱状態になると、まわりが見えなくなるとよく言われるが、マサハルの場合は少し違う。まわりが見えなくなるわけではなく、一つのことが異常に気になってしまうので、まわりを見ることが怖いのだ。
まわりを見てしまうと、気になっているものを見失ってしまいそうで、だから、目が離せないというところが本音であろう。
ただ、まわりも、いつもと違っているということも事実であった。まず、色が違う。同じ色なのだが、角度によって、あるいは、日光の当たり具合によって、色が違って見えるというあの感覚である。
色の違いで一番分かりやすいたとえは、信号機の色だった。
信号機の青い色、あれは光の当たり具合、あるいは、昼と夜とで明らかに違っているのを感じる。
昼の明るい時間には、緑色に見えるのだ。そして、夜になると、真っ青に見える。似たような感覚を覚えた人もいるのではないだろうか?
また、赤信号も色が違って感じる。昼間は、ピンク掛かった赤に感じるのだが、夜にあると、真っ赤というか、濃い紅色に見えるのだ。
それが、鬱状態の時に感じることで、さらにいえば、夕方に訪れる、倦怠感。あれも、鬱状態の特徴であった。
マサハルは最初は気づかなかったが、ただの鬱状態だけではなく、躁鬱症にも罹っているようだった。
鬱状態がある程度までくると、躁状態に変わり、また一定の期間、躁状態を過ごせば。今度はまた鬱に戻ってくる。まるで普通の状態を忘れてしまったかのようである。
躁鬱が定期的に襲ってくるということをイメージできるシチュエーションが、
「トンネルの中」
というイメージであった。
ハロゲンライトのようなまっ黄色のトンネルの中で、ずっと走っていると、途中から、暗い色が混ざってくる。本当は暗い色ではなく、トンネルの中だから、いくら黄色であっても、暗いはずなのに、急に暗くなるというのは、
「出口が近い」
ということであった。
出口が近いのに、暗いというのは、黄色以外の色が侵入してきたことで暗く感じるというだけなのだが、その色が入ってきたことで、トンネルから抜けるのだということが分かる。
そして、次第に、トンネルの奥に、白い小さな点を発見すると、それが出口であるということは、本能的に分かるのか、一瞬白く見えた光が、あっという間に、眩しさを帯びるほどの光となって感じられるのだった。
そして、そのトンネルの黄色い光が、出口の白い色に侵食され、黄色が、どんどん白色仕掛けているのを感じるのだ。
これで抜けられるという思いから、黄色と白い色との関係にまったく目がいかないのだろうが、後から思い出すと、そのコントラストがハッキリと思い出されるのだ。
それは、定期的に見ているという感覚があるからなのか、それとも、
「鬱状態から躁状態に抜ける時というのは、大体わかるものだ」
という意識があるからなのかと考えるのだった。
正直、自分の中では後者であり、躁状態から鬱状態に入る時は分からないが、鬱状態から抜けて躁状態に入る時は分かると思っていた。その理屈を自分に納得させてくれたのが、この、
「ハロゲンランプのついたトンネル」
なのであった。
表が、躁状態で、トンネルの中が、鬱状態だと思えば、すべての理屈を説明できるような錯覚に陥るのだった。
トンネルの外からトンネルの中に入る時というのは、トンネルから抜ける時のように、出口が見えるわけではない。表の景色を覚えていて、
「この景色を見ると、その先に、トンネルがあったはずだ」
ということが分かるからである。
つまり、躁状態の時というのは、まわりのすべてが分かっている状態であり、鬱状態に陥ると、まわりが皆同じで、自分がどこにいるのか分からない。早く抜けてほしいという思いから、どうしても、正面に集中してしまい、一瞬暗さを感じるという、白色を探そうとするのである。
見つかった瞬間、歓喜の声を挙げるかも知れない。その瞬間、スパークでも起こったかのように、光が一気に目の前に飛び込んでくるので、目の錯覚を覚え、それまでの記憶が打ち消させてしまうかのようになってしまう。
トンネルのまわりの黄色い色を覚えていないというのは、そういうことなのだ。
だから、逆に、今度は抜けきって、躁状態に入った時、また襲ってくる鬱状態に気持ち悪さを感じながら、
「できれば、入る瞬間が分かった方が、対処のしようもあるのにな」
と考えるのだが、そうは問屋が卸さない。
明るいところから暗いところに入るのだ。光を発するどころか吸収する力がある光は、決して、
「人間の思い通りになんかなるものか」
とでも言わんばかりであった。
どうして、鬱状態から抜ける時だけ分かるのかというのは、疑問だった。本来なら逆の方がいい。
「気が付いたら、鬱状態を抜けていた」
と感じる分には、別に気にする必要はないが、急に鬱状態に入ってしまっていれば、心構えもなく、いきなりトンネルの中の黄色い光に心を奪われることになり、それが、さらなる強い鬱状態を招くことになる。
もっと言えば、
「最初から分かっていれば、鬱状態に、そう簡単に入ることもないのではないだろうか」
とも考えられるのである。
躁状態と鬱状態は、それぞれにスパイラルを描くのであるが、その先に見えるものは、鬱状態から、躁状態に抜ける時にしか分からないということになるのである。
マサハルは、その時、長いトンネルの中にいた。
「普段なら、もうそろそろ抜けていてもいいはずなのに」
という思いを抱くのだが、その時の鬱状態はかなり深いのか、かなりの粘着質であった。
粘着を振りほどこうとすればするほど、出口が見えてきそうな気がしない。脇道があるわけでもないのに、どこか脇道を見つけなければ、永遠に鬱から抜けることはできないような気がした。
その時に感じたのが、身体のダルさだった。
倦怠感と言ってもいいのだが、それが子供の時の記憶のようだった。
その記憶というのが、まるで時代錯誤のようなもので、学校からの帰り道すがらにある公園で、皆で遊んでいるのだ。
その公園は、空き地と言ってもいいイメージで、ブランコや滑り台、鉄棒などの遊技だけではなく、滑り台の下には、砂場もあった。
しかも、そこからさらに奥には、土管がおいてあり、三つあるのだが、下二つに上一つという、当たり前の形の構造をしていた。
ただ、この形は、アニマなどで見る、
「昭和の公園」
だった。
もちろん、昭和などという時代を知る由もないマサハルが、昭和の公園をイメージするというのは、アニメなどで子供の頃に見た、昭和の公園をいまさらながらに思い出したからなのだろう。
昭和では、皆近くの公園、あるいは空き地に行って野球をしたりして遊んでいるというイメージがあるが、マサハルにも、その印象はあり、もっと言えば、
「夢で何度も昭和の公園で遊んだというのを見た気がするんだな」
と感じていた。
夢で見るということは、それだけ意識しているということであり、土管というのも、印象深かったのである。
そんな昭和の公園で遊んでいて、夕方になると、皆疲れて、家に帰るというシチュエーションであった。
作品名:入らなければ出られない 作家名:森本晃次