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後悔の意味

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 という意識は、別にドッペルゲンガーのようなものではなく、どちらかというと、
「マトリョーシカ人形」
 のような感覚だといってもいいだろう。
 マトリョーシカ人形というと、ロシアの民芸品として存在するもので、
「人形があって、胴体の部分で上下に分割でき、その中には一回り小さい人形が入っている。これが何回か繰り返され、人形の中からまた人形が出てくる入れ子構造になっている。入れ子にするため腕は無く、胴体とやや細い頭部からなる筒状の構造である。5、6重程度の多重式である場合が多い」
 というものである。
 ということは、
「人形を開けると中からまた別の人形が出てきて、さらにその中に人形が……」
 という構造なのである。
 マトリョーシカを想像した時、さらにセットで想像されるものが、湧川にはあった。
 それが、いわゆる、
「合わせ鏡の理論」
 であった。
 合わせ鏡というのは。鏡を向かい合わせに配置することであり、そこに映るのは、自分と、その後ろにある、鏡である。その鏡には、反対から見た自分が写っていて、さらに、また元の鏡が映っている……。
 というように、無限に自分の姿は映されるのではないか? というものである。
 入れ子になっているという意味で、マトリョーシカを見ると、この合わせ鏡を連想するのだった。
 そもそも、この連想という発想こそ、マトリョーシカや合わせ鏡のような、入れ子の発想ではないか。
 違いとしては、合わせ鏡が無限ループの発想があるのだが、マトリョーシカにはそこまではない。
 それは、マトリョーシカは、すべてが実態だということだけではないだろうか?
 マトリョーシカ人形は、皆違う顔をしているのが特徴で、一番表の人間と、中から出てくる人たちの関係がどのようなものなのかということは、資料にないので、まったくの想像でしかない。
 そこにはこだわりがないのかも知れないし、れっきとした意味があって、基本的にはその意味の通りに作られているのかも知れない。
 ただ、一番表がそのマトリョーシカを作るうえで、すべてを網羅しているというのか、あるいは、凌駕しているといってもいいかも知れない。何しろ、自分の身体の中に、他のものが存在しているのだからである。
 これが2体だけということになるのであれば、つむぎとつかさの関係に似ているのではないかと思えた。
 しかも、どちらが表で、どちらが中なのかということが分からないような気がする。どっちが表であっても、何ら不思議はない。それだけ、二人は1対に見えるからだ。
「つむぎがあってのつかさであり、つかさあってのつむぎに見える」
 と感じる。
 どちらも、単独で存在するに十分な存在感を感じるのに、二人が一緒の時は、
「二人で一人」
 と思わざるを得ないのは、なぜなのだろう?
 それは、お互いがお互いを補っているイメージが強すぎるからではないかと思えた。
 二人が一緒にいる時は、どっちがどっちか分からなくなる。逆に言えば、どっちがどっちでも、さほど問題がないというほど、似通っていて、それが、マトリョーシカを想像させるのかも知れない。
 しかし、それは、どちらかを意識してじっと見ていると、その姿の後ろに感じるもう一人がいるという感覚である。
 それが、マトリョーシカを通り越して、そこにある合わせ鏡を想像させるのかも知れない。
 合わせ鏡のように、二つを向かい合わせに置いて、その間に自分がいることを想像すると、鏡には、無限に自分の姿が映し出される。そんな効果が二人にあるのだとすると、
「二人には、そのような自覚はあるのだろうか?」
 と考えてしまう。
 何といっても、これは、湧川の想像であり、妄想に近いものだ。
 それを考えると、
「自分は、どこか精神疾患でもあるのではないか?」
 とまで感じるほどになっていた。
 想像が妄想となり、妄想は果てしなく続くという発想が合わせ鏡であるとすれば、それを制御できるものは、二人の中に存在するマトリョーシカではないだろうか?
 マトリョーシカも、理論的にいえば、無限ではあるが、実態があるから、無限はありえない。
 しかし合わせ鏡は基本的に、鏡に映った像であり、虚像なのだ。あくまでも、
「理論上」
 というだけであるが、そこには、無限ループの発想があるといってもいい。
 では、
「マトリョーシカ人形の中に入っている人形のその中に、一番表の人形があるとすれば、どういうことになるのだろう?」
 と考える。
 どこか、合わせ鏡の発想であるが、それは、直線上にあるもので、同じものではない。
 合わせ鏡の場合は、
「映し出されたもの」
 ということなので、そこに映るものは、まぎれもなく、同じものだ。
 奇数と偶数で大きさの違いこそあれ、同じものが映るはずというのが、合わせ鏡の原理であろう。だから、まるで円を描いているような循環性があるのだ。
 だか、マトリョーシカには、循環性は考えられない。
 となると、同じものが中から出てきたとしても、それは、偶然同じ顔をしているだけの別のものだということになる。それを考えると、
「もう一人の自分」
 という存在も、ここでいう、
「マトリョーシカの原理」
 のようなものではないだろうか?
 一直線上にある中に、もう一人の自分を感じた。それが、もう一人の自分だとすれば、マトリョーシカの存在は、無視できるものではないのではないか?
 と考えるのであった。
 つかさとつむぎの関係が、マトリョーシカのようなものなのか、それとも、合わせ鏡のようなものなのか? そんなことを考えていると、次第に二人の区別がつかなくなってくるのを感じた。
 そもそも、湧川は、人の顔を覚えるのが苦手なタイプだった。初対面でも、2,3時間も一緒にいれば、普通であれば、次に会う時は憶えているものなのだろうが、次に会った時、本当にその人だったのか、自信がないのである。
「たぶん、そうだったと思う」
 という程度にでも思い出すことができればいい方で、思わず、
「初めまして」
 と言ってしまい、相手に対して失礼になりそうな気がするくらいである。
 確かに、
「間違えたらどうしよう」
 という思いが強く、自分から声が掛けられないという思いを、ずっと昔からしていたような気がする。
 きっと、一度自信をもって声を掛けると、実は違う人で、赤っ恥を掻いてしまったという思いが、小さい頃にあったのかも知れない。
 正直覚えていないのだが、それがトラウマとなって、心の奥に存在しているとすれば、それも無理もないことで、二度と自分から話しかけることができなくなってしまっているとすれば、これは、かなり大きな自分にとってのマイナス面だといえるのではないだろうか?
 そんな思いをどちらがどちらにということを考えてしまっているとすれば、今、湧川は、一種のループに入り込んでしまっているのかも知れない。
 だが、まだ湧川は知らなかったが、似たような思いを、この場所で、この4人が、共有しているかのようになっていることを……。それが、分かるようになると、進展があるのだろうが、今のところ、よく分からない状態だったのだ。

                 心の壁と言葉の壁
作品名:後悔の意味 作家名:森本晃次