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後悔の意味

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 どこかで、必ず頂点に達するだろうから、そこから先は、上げどまりして、平行線を描くか、それとも、下降線を描くかのどちらかだろうから、それを見極めてみたいという気持ちになった。
 それが、えれなに対しての一番の強い思いだったのかも知れない。
 その時感じたのが、
「えれなという女性と、学生時代に知り合ってみたかったな」
 という感情であった。
 今の彼女でもそうなのだから、学生時代はもっと開放感はすごかったのだろうなと感じたからだった。
 ただ、今よりすごいというと、想像もつかない。
「彼女は、学生時代から変わっていないということか?」
 と思うと、その希少価値は、すごいものだと感じ、
「やはり、今の彼女を最高だと思ってあげないといけないんだ」
 と感じたのだ。
 大学時代が開放的になるのは、高校時代までの反動もあるかも知れない。
 湧川の場合はそうだった。高校時代までの鬱積したストレス、もちろん、受験戦争を中心とした鬱積だが、何よりもそれは、大学受験という凌ぎを削る時間を、思春期という成長過程において、平行して生きていかなければならないことに起因しているだろう。
 まったく正反対の精神状態を、まだまだ発展途上な人間が味わうことになる。思春期というと、精神的な感情が、肉体に及ぼすことが大きいので、そのストレスは、相当なものだったのだろう。
 ただ、これは自分だけに限ったことではない。誰もが感じていることなので、感じ方もその人それぞれなのだろう。
 中には、ストレスをストレスと感じずに、訳が分からない状態で、思春期を乗り越えてきた人もいるだろう。
 肉体的な変化は、精神的に性的なストレスに結びつき、下手をすれば、精神疾患を伴う人もいただろう。それが、プレッシャーとなって、受験勉強に支障をきたしたりするのだ。「よくあの時代を生きてこれたよな」
 と湧川は思った。
「勉強は確かに苦痛だったが、勉強を嫌いにはならなかったな」
 という思いがあった。
 同じ教科でも、その種類によって、好き嫌いはあった。
 例えば、数学であれば、
「三角関数は好きだったが、微分・積分になると分からなくなってしまったよな」
 というように、一つの科目でも、好き嫌いが別れたりするものだ。
 だから、一つの科目全体を、徹底的に嫌いになるということもなければ、徹底的に好きになるというものは少なかった。
 そんな中で、結構好きだったのは、歴史だっただろうか?
 歴史にも好き嫌いはあった。
 いや、嫌いというよりも、ブラックボックスがあったといってもいいだろう。例えば、戦国時代は好きだが、幕末は分からないなどというところである。
 女性が歴史を嫌いだといっているのは、好きな時代があっても。ブラックボックスが、さらに、好きな時代よりもはるかな大きさを示しているからだろう。学問を、数学的なプラマイで考えると、結果がそのまま好き嫌いになってしまうというのは、往々にしてあることだ。
 特に歴史というものを、暗記物の学問だと考えてしまうと、それも仕方のないことで、それだけ一つの教科に対して、実直にしか見れないということで、成績もそれに反映し、
「嫌いな教科は、成績も悪い」
 という分かりやすい結果を導くことになるのだろう。
 湧川はそこまでのことはなかったが、それでも、受験勉強は苦痛だった。
 だが、受験も終わり、受験勉強というものから解放されると、大学時代は、まあ、勉強をしなかった。
 まわりに流されてしまったといってもいいだろう。
 実際に流されるということは、なかったかも知れないが、流されるというのはあくまでも言い訳であり、流されたということを認めてしまうと、自分の性格を否定してしまうことになり、それは、大きな矛盾を孕むことになる。
 それが、ジレンマとなって湧川の中に残っていて、湧川が社会に出た時、学生時代とのギャップから、いわゆる、
「五月病」
 なるものに掛かったのを思い出していた。
 大学時代までは、
「余裕を持った毎日」
 であり、社会に出ると、それを上から押さえつけられるという印象が深かった。
 もちろん、就職活動の時点から、それくらいのことは覚悟の上だったと思っていたが、実際に就職して、先輩が新入社員に対しての、明らかな上から目線には、苦痛以外の何者も感じることはなかったのだ。
 だが、逆に大学時代というのは、本当に、
「余裕を持った毎日」
 だったのだろうか?
 そっちの方が怪しい感じがしてきた。
 自由というものがどういうものかと考えると、
「ひょっとすると、大学時代の自由というのは、孤独と背中合わせだったのではないだろうか?」
 と感じるようになってきた。
 孤独を味わいたくないから、まわりの人とつるんでしまうのではないだろうか。自由にふるまうということはある意味、個人差がある。だから、大学時代は、その個人差を自分に当てはめて、ある程度寛容でないと、自由から孤独を誘発してしまう毎日になってしまうのではないかと思うと、恐怖にすら感じるほどであった。
 それでも、大学を卒業し、五月病を味わいながらでも、社会人となって働いていたが、最初の数年は、さすがに、余裕らしいものはなかったかもしれない。
 やっと余裕のようなものが生まれてきたのは、26歳くらいになってからだろうか?
 仕事の愉しみが、少しずつ分かってきた頃である。
 会社に入ると、まずは、会社に慣れること。そして、その次に、やっと仕事を覚えることに集中する。これには、少し時間もかかる。
 もっとも、会社に慣れることができないと、仕事どころではない。だから、会社に対して、
「こんなはずではなかった」
 と思うと、自分に自信が亡くなったというのか、間違いだったと感じるのか、会社を辞めていく人が一定数いる。
 会社側もそれを見越して雇っているので、それほど困ることはないだろう。
 会社に慣れてくると、仕事の覚えも苦痛ではない。何しろ、会社に慣れる方が、仕事を覚えることよりも、何倍も苦痛だったからだ。
 しかも会社に慣れてくると、先輩社員や上司の見る目も変わってくる。それまでの上から目線が少し下がってきて、協力的になってくるのだ。
 きっと、会社の一員として、やっと見てくれるようになったからで、かと言って、一人前という目ではまだ見てはくれていないということを理解しておかないと、またまわりに疑問を抱くことになるのは、必定だった。
 仕事を覚えていくと、だんだん、プライベートにも余裕ができてくる。
 そんな時、
「本でも読んでみるか?」
 という思いが出てくれば、それが精神的な余裕なのだろう。
 要するに、趣味に興じる時間を作るということだ。その趣味は何であってもいいのだろうが、身を亡ぼすことになる趣味は、怖い気がした。
 例えば、ギャンブルだったり、金銭的に生活を圧迫するような趣味である。
 読書だったら、そこまで金銭的にきついものではない。高尚な趣味として、趣味を楽しむ自分を、第三者として想像すると、結構余裕を感じさせる趣味としていいものだと、感じた。
作品名:後悔の意味 作家名:森本晃次