後悔の意味
それから、いちかは、湧川に、何んら相談をしてくることはなかったのである、
湧川の後悔はひどいものだった。
「これじゃあ、言葉が通じないのと、同じことじゃないか?」
と、言葉のせいにして、相手の気持ちを理解することへの言い訳にしていた。
だから、今回も、つかさがまったく話をしないことを、かつての神話や聖書の逸話になぞらえて、
「言葉の壁」
を、
「心の壁」
と、同等かそれ以上のものとして、考えようとしていたのではないか?
そんなことを考えていると、いちかと、つかさがかぶって仕方がない気がした。それがつかさの中に感じた、
「もう一人の自分」
だったのかも知れない。
下総えれな
湧川には、以前から気になっていた女の子がいた。彼女のことを好きで好きでたまらなかったのだが、何か失礼なことをしてしまったのか、急に彼女が起こり出したのだった。
何にそんなに怒りを覚えたのか分からないが、好きになった彼女も、実は湧川に失礼なことをしたのだ。そのことを彼女が自覚しているかどうか分からないが、結果的に、お互いが悲惨な気持ちになって、別れるしかなかった。
別れるといっても、お互いにつき合っていたわけではない。むしろ、彼女には、彼氏がいて、そのことを、いわゆる「別れ」の少し前に知ったばかりだったのだ。
彼女の名前は、下総えれなという。
きっと、彼女にしてしまった失礼なことというのは、
「彼女が別れるということが分かったので、それを慰めえるつもりで、実は自分のことを自分では分からないままに、宣伝していたのではないか?」
と思ったことだった。
それまで、つき合った女の子もいなかったのだから、それも仕方のないことではないか。
「いや、これも言い訳というものである」
と思わざるを得ない。
その時、彼女は少し怒っているような雰囲気は感じた。その時は逆に怒っていることを、湧川には知られたくないという様子だったのだ。
しかし、湧川には何か、ぞわぞわしたものがあった。何か嫌な予感がしたとでもいうべきであろうか?
えれなから呼び出しを受けたのは、それから数日後だった。それまでえれなからの呼び出しなどなかったことなのに、どうしたことだろう?
「いつもの喫茶店でね」
と言われた。
大学を卒業してから、数年が経ったが、女性と喫茶店に行くなど、本当に久しぶりだった。
えれなは、湧川が営業でいく会社の受付に座っている女の子だった。彼女の仕事は別にあったのだが、会社の方針で、女の子が定期的に交代で受付をするということになっていたという。よくその会社に行っている時、ちょうど、えれなが担当だったのだ。
えれなは、結構モテていた。気さくな性格で、まわりへの気遣いもしっかりする恩の子で、男性にモテるとなると、女性からは嫉妬を受けるものなのだろうが、彼女の場合は、女性からも慕われているようだった。
「そこが、彼女の一番の魅力ではないか?」
と、湧川は感じたが、まさにその通りだった。
ただ、それだけに競争率は高く、本当に、
「高嶺の花」
だったのだ。
実際に、彼女が受付をしている時、何人かの営業の人が、彼女に交際を申し込んできたというくらいの人気だったようだ。
それを伝え聞いたことで、
「とても、俺では太刀打ちできないよな」
と、思い、いつもの、
「卑屈状態」
に入ったのだった。
そんな状態になることは珍しいことではなく、そんな風になってしまう自分が嫌で嫌で、仕方がなかったのだ。
話を聞いてみると、えれなは、自分と同じ大学出身だった。学部は、自分が商学部で、彼女が文学部と違っているし、学年は2つ違うだけなので、
「ひょっとして、キャンパス内で会っていたかも知れないね」
というくらいの話はしていた。
「ええ、そうですよね」
と、そこから会話が続かない。
「彼女は、他の人とも同じように、喫茶店に来たりしているんだろうな」
と思ったのは、湧川が、かなり時間を掛けて、暖めてきた勇気を、何とか振り絞ってやっとのことで、
「今度、お茶にでも行きませんか?」
と、それも、声を上ずらせて、絞り出した言葉だった。
しかし、
「いいですよ。湧川さんとご一緒して見たかったんですよ」
と、二つ返事が返ってきた。
「こんなに簡単なものだったんだ」
と、拍子抜けしたほどで、同時に感じたのが、
「俺のような男にでも、これだけ社交辞令が激しいんだから、他の人だったら、誘われれば、絶対に断ることなどしないよな」
と思った。
「八方美人」
という言葉が頭を掠め、
「あざとい女性」
というのは、彼女のような女性をいうんだと思うと、少し興奮が冷めてくるのを感じた。
そう思い始めると、彼女から言われて、嬉しいと思うような言葉であれば、それは、
「他の人には、もっとすごいことを言っているんだ」
という、妄想に駆られてしまう。
それは、自分と彼女の、
「交わることのない平行線」
であり、追いつくことのできないレースを、ただ果てしなく進んでいるという思いしかなかった。
後姿にも見飽きてくると、身体の疲れが一気に襲ってくる。そうなると、自分が道化師であったことに気づかされて、ドキドキしている自分が恥ずかしく感じられる。
それでも、
「一縷の望みを抱いて」
と思い、会えることを楽しみにしていた。
せっかく、会いたいといってくれているものを、ハッキリとした理由も証拠もないのに、拒否するというのは、自分がどれだけ卑屈な性格なのかということを、証明しているようなものではないか。
彼女との待ち合わせは、必ずデートだと思うようにしていた。彼女はそうではないのかも知れないが、せっかくだから、そう思わないと損だと思ったのだ。
だが、自分から何も話題がないことを、いまさらながらに感じ、それを恥だと思うようになった。
「どう見たって、不釣り合いな二人なんだよな」
と感じる。
それでも、彼女が、
「次回が楽しみだわ」
と言ってくれると、その瞬間は、気分が高揚してくる。
つまり、この時が、自分の中での絶頂を迎えているのだ。
デートの時は、いつも、
「気が付けば終わっていた」
と感じる。
せっかくの時間がもったいないといってもいいのだろうが、会話は彼女の方から話題を振ってくれるので、それに答えるだけでよかった。答えるだけなら、それほど苦痛ではなかった。意外と、相手が質問する、こちらが答えるという関係がしっくりくるアベックなのかも知れない。
おっと、今の時代はアベックとは言わないようだが、湧川は、母親から、
「アベック」
という言葉を聞かされて気に入っているので、今でも使うようにしていたのだ。
だから、えれなから、
「アベックって?」
と聞かれて、
「カップルのことです」
と答えていた。
そんなえれなは、湧川が思っていたよりも、より開放的だったということである。
もっといえば、開放的だという思いが現在進行形のように、次第に膨れ上がってくるのだ。
「このまま果てしなく開放的に向かうのだろうか?」
と思ったが、それはありえない。