後悔の意味
「言葉が通じなくなったことで、まるで、目くらましにあったかのようで、敵対行動をとるというのは、人間にとって、十分にあり得ることであり、いまさらのように、伝説をして書くところが何ともあざとい感じではないか?
だから、つかさのような、あまりしゃべらない女の子は、
「何を考えているのか分からない」
ということで、信頼に値しないといってもいいだろう。
「信用できるのは、自分だけ」
と考えている人はたくさんいるだろう。そういう人にとって、もう一人の自分の存在というのは、ドッペルゲンガーとしておそれられる存在であり、さらに、
「世界各国に散っていった、言葉が通じなくなった庶民」
と同じではないだろうか?
だが、その中には権力者が生まれ、搾取が始まることで、また国家というものが形成される。
それは、人間というものが、
「一人では生きていくことができない」
ということを表しているのではないだろうか?
「言葉が通じない」
というのは、
「自分から言葉を発しない」
というのと違うのだろうか?
言葉が通じないというのは、お互いに、自分の言葉で話をしているのだが、そもそもの言葉が違うので、いくら言っても相手には分かってもらえない双方向の問題であり、自分から言葉を発しないというのは、片方からは、言葉を発して、その言葉の意味を相手は理解しているにも関わらず、相手は何も発信しないので、一方通行でしかない。
言葉が通じなかったとしても、時間が経てば、素振りや感情で、相手が何を言っているのか分かってくるものではないだろうか? だからこそ、まったく言葉が通じない状態にしても、今現在、辞書や翻訳の機械もあったりして、通じない言葉はないと言われているではないか。
これは、宇宙人が存在し、宇宙語が分からなかったとしても、いずれ分かるようになるということではないだろうか。
いくら言葉が通じていても、相手が、まったく言葉を発しないのであれば、もうどうしようもない。
ある意味、相手が何もしゃべらないということは、感情を表に出さないわけで、どうしようもないことを示している。いくらこっちが歩み寄っても、相手が心を開かないのであれば同じことだ。いったん、人間を信じられないと心に決めて閉ざしてしまった心を開かせるというのは、ドラマなどでは簡単にできているが、実際にはそんなことが簡単にできるわけはない。
「言葉というのは、心を通じ合わせる最大のアイテムだ」
と言ってもいいだろうが、権力者がいて、国家を支配している時代でも、大きな問題である。
今のような、民主主義では、権力者がいても、主役は個人だ。そうなると、閉ざしてしまった心を開かせるというのは、
「力でも無理なものを、いかにすれば、開かせることができるというのか?」
ということである。
つかさの態度を見ていると、本当に何を考えているのか分からない。
「言葉は通じなくても、そのうち心が通じ合えば」
ということで、言葉よりも、まず心だというのに、その心が通じ合わないのだから、何をどうすればいいというのか?
神も、心から最初に通じ合うものだということが分からなかったのだろうか? 本当に罰を与えるなら、心が通じ合わないようにするべきだった。そこまでしなかったのは、
「それをすることで、人間よりも神の方が、損をすることになる」
というところに起因するのではないだろうか?
湧川には、言葉の壁はおろか、心の壁をぶち破ることのできない現状を、苛立ちを持って迎えていたのだ。
とにかく相手が喋らないということに対して、湧川にはトラウマのようなものがあった。
あれば、まだ、大学に入ってすぐくらいだったか、子供の頃からの幼馴染だった女の子がいるのだが、その子が、何か寂しそうで、湧川を見ると、急に避けるようになったのが気になったので、
「どうしたんだい?」
と言って、話しかけたことがあった。
その女の子は、友達ともなかなか話をしなくなったということで、前から気になっていたので、彼女の友達の子にちょっと聞いてみたことがあった。
幼馴染の名前は、いちかと言ったが、
「いちかちゃん、最近、彼とどうもうまく行っていないみたいで、最初は、私によく愚痴を零していたんだけど、そのうちに愚痴すら言わなくなってしまったの。ひょっとすると、私が、嫌な顔でもして、気分を害しちゃったのかも知れないわね」
と友達はいうのだった。
「えっ? いちかちゃんに彼氏がいたの?」
と、正直、湧川はビックリしていた。
いちかに対しては、幼馴染ということもあり、女として見るのを封印していたところがあったが、実際には本当にかわいいと思える子で、
「彼氏ができるくらいなら、俺だって」
と少し悔しく感じないわけでもなかった。
それはさておき、
「いや、そんなことはないと思うよ」
と彼女の後悔を少し和らげるように言ったが、実際には彼女の想像は当たっているかも知れない。
いちかという女の子は、確かに何かあった時、友達や自分にいろいろ聞いてもらいたいと思って話をするのだが、途中でプッツリと何も言わなくなる。すると、こちらは、
「ああ、もう吹っ切れたのかな?」
と思っていると、実はそうではなく、
「人に愚痴っても同じだ」
ということに気づいただけなのだという。
そのことには、なかなか気づかなかったが、ふと、本人が話してくれたことがあった。
いちかは、湧川のことを、
「お兄ちゃん」
と呼ぶ、
「お兄ちゃんだから話すんだけど、私ね、いつも皆に愚痴を聞いてもらってから、急に話すのをやめるでしょう? そんな時、皆、これで私が吹っ切れたと思っているのかも知れないけど、そんなことないのよ。私は吹っ切れるどころか、我に返るのよ。人に話したって同じだってね。結局、皆他人事でしかないのよ。しょせん、人の苦しみなんて、神や仏でもないと分かりっこないもの」
というのだった。
平静な時だからこそ、言えるのであって、そんな時でも思い出すとイラつくようで、本当に落ち込んで孤独感に苛まれている時に、こんな気分にさせられでもすれば、どうなるというのだろう?
いちかの気持ちを考えると、それ以上何も言えなかった。
言えないというよりも、何もいう資格はない。なぜなら、
「何を言っても、言い訳にしかならない」
からではないだろうか?
いちかには、そのことは分かっていた。分かっていても、最初に愚痴らないではいられない。
「ひょっとすると、我に返る前に。スッキリできないだろうかと考えているとすれば、いちかは、愚痴を誰かに零すことはやめないだろうな?」
と感じた。
それだけ、いちかにとっては、湧川に対しての話は、覚悟を決めてのことだったのかも知れない。
実は、その時いちかが平常心だと思っていたが、実際には何かに悩んでいて、その悩みを言わないようにしようとして、その相手に選んだのが湧川だった。
湧川はそのことをしっかりと理解し、いちかの気持ちに立って考えてあげなければいけないのではなかったのだろうか? そんなことを分からずに、またしても、スルーするような相談の受け方になってしまった。