後悔の意味
の発想とは明らかに矛盾しているもので、合わせ鏡が、対等でなければいけないのではないかということに対して、仏をイメージすると、階層が生まれてくるのだった。
そもそも、宗教というのは、平等という発想ではないのか?
と感じる人がいるかも知れないが、そんなことはない。宗教界ほど、身分がはっきりそしたものはない。
それぞれの役割や立場がしっかりしているからこそ、その社会が成り立っているといえるのが、天界ではないだろうか?
人間界では、そんな役割に応じた力が備わっていないから、身分制度にすると、そこに、権力が力となって現れ、不平等さが露呈するのではないだろうか?
だからこそ、人間界では、その力が見えないのだ。見えないからこそ、力が備わっていないと思われがちで、
「人間は、自信が持てない生き物である」
といわれるのではないだろうか?
だからこそ、人間は、宗教に走り、死後の世界に楽園を創造するのだ。
「この世でいい行いをすれば、あの世に行って、幸福になれる」
という、
「この世では諦めをつけ、来世での幸福を祈る」
というのが、基本的な宗教の考え方である。
だから、暗く見える人は、まるで悟りを開いているか、諦めの境地なのか、今を楽しもうとしている人間を白い目で見ているように思えて仕方がないのだ。
だが、現世での幸せを求めるのは当たり前のことで、本当にあの世がなかったら、どうなるというのだ?
そういえば、
「ノストラダムスの大予言」
であったり、
「世界最終日」
という伝説があったりしたではないか?
どちらも、
「その日が近づくと、世界が滅亡する」
と言われた日であったが、韓国では、
「世界最終日とされる日に、全財産を寄付すれば、極楽に行ける」
などと言って、信者から、全財産をお布施させ、そして、
「最後の日は皆で迎えよう」
と言って、どこかの競技場のようなところに信者が、密集したという。
しかし、ご存じの通り、世界はその後も存在している。したがって、全財産を取られた人は、宗教団体を相手取って訴訟をしたようだが、果たしてどうなったのだろうか?
そもそも、お布施をすれば、極楽に行けるというが、お布施をしても、どうせ皆滅びるのだから、同じことのはずであり、気休めでしかないはずなのに、それを信じる人がたくさんいるというのもすごいものだ。
お布施という行為だって、人間界だからこそ、美徳なのであって、神や仏の世界では、お布施など美徳と呼ばれるものなのだろうか?
そもそも、あの世に、お布施などという風習があるとも思えない。それこそ、
「地獄の沙汰も金次第」
と言われるが、その言葉通り、汚い世界なのかも知れない。
実際に、滅びなかったが、滅びるかも知れない可能性を信じたという発想は分からなくもない。
他の人はどうなのか分からないが、湧川の中で、
「世界最終日」
という発想は、聖書の中に出てきた、
「ノアの箱舟伝説」
に近いものがあるような気がするのだった。
ノアの箱舟伝説というのは、人間界を作った神が、自分の作った世界を憂いて、再度作り直そうとして、それぞれの種の一対を子孫繁栄のためとして、生きながらさせるために、人間で選ばれたノアという人物を使い、
「大洪水を起こして、世界を滅亡させるので、お前は大きな箱舟を使って、そこに一対のすべての種族を保護するのだ」
という予言をした。
そこで、ノアは神の言う通り、箱舟を作っていたが、他の連中から、
「陸で船を作るなんて、何をバカなことをしているんだ」
と言って、笑いものにされていたが、神との約束なので、絶対に洪水は起こると信じて疑わず、実際に洪水を起こして、世界を神は一度滅ぼすことに成功したのだった。
そこで水がひいてきてから、新たな世界の建設に、ノアは奮闘することになるのだが、それが、いわゆる、
「ノアの箱舟伝説」
と呼ばれるものであった。
このような、
「洪水伝説」
というのは、実はいろいろなところにあるという、神話の世界であったり、東洋にも存在しているというから、古代では一般的だったのか、それとも、天変地異か何かで、本当にどこかの地域が、一瞬にして洪水に巻き込まれ、ほとんどの生物が息絶えたなどということがあったのかも知れない。
どちらの説が説得力があるかというと、実際にあった事実だという方が、信憑性があるような気がする。
洪水によって、世界が滅亡するという伝説が、そんなにたくさん、世界中に、残っているというのも、怪しいものである。
世界中に広がる、ピラミッドなどの巨大遺跡、しかも、それは、ほとんどが、
「その土地の権力者の墓陵だ」
というから、古代に、世界中で同じようなものが存在したというのは怪しいものではないだろうか。
UFOや、宇宙人説が囁かれるのも無理もないことで、これだって、
「実際に存在したものを、誰かが広げたことから始まったことだ」
と思うと、箱舟伝説だって、
「存在したことだ」
と言って、信憑性のあるものではないだろうか?
日本の昔話と言われるものでもそうではないか。
「口伝と言って、各地に存在している、言い伝えが、物語になって、昔話として伝わっているので、作者は不祥なものが多い」
と言われている。
特に、
「浦島伝説」
なる者も、結構あり、竜宮城や玉手箱のような、まるで、
「相対性理論」
を証明したかのような内容が、日本のあちこちにあるのだ、これは、半分本当のことだと思って不思議ではないのではないか?
また、桃太郎の話なども、
「ここが、鬼ヶ島の元祖だ」
と言われているようなところもたくさんあるではないか。
そもそも、その場所と限定する形で存在する話もある。例えば、
「天女と羽衣などは、静岡のお話であるということは、実際に限定されているではないか?」
世界の七不思議と言われる、ピラミッドや、ナスカの地上絵などというものも、誰が何の目的で作ったのか? ということである。
伝説のバベルの塔も、
「宇宙船が故障したことで、宇宙人が自分を見つけてほしいという発想から、地球人を奴隷にして、大きなタワーを作った」
という話である。
それがなぜ、倒壊することになったのか?
「自然の摂理で、重たくなりすぎて、自然に壊れたのか?」
「どこからか攻撃を受けて壊れたのか?」
あるいは、
「自然現象による倒壊か?」
それも考えられることであり、問題はこの話の最期だった。
神が、天に弓矢を引いた人間に怒り、言葉が通じないようにして、世界各地に人を分散させたということが、何とも恐ろしい伝説ではないか?
だが、これも考えてみれば、各地の伝説というのが、この、
「バベルの塔」
の伝説から波及したものだとすれば、つながりもあるというものである。
最後に、
「言葉を通じなくすることで、人間同士が信用できなくなり、世界各国に散らばった」
ということである。
今の世の中で、国ごとに戦争があるというのも、この伝説から、