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真実の中の事実

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 と考えている人も少なくはないはずだ。
「ただ、話しかけるだけなのに」
 と思うと、違う考えが浮かんできた。
「要するに、一歩踏み出すことができれば、二歩目からは、言葉がいくらでも出てくるものではないか?」
 と考えるようになった。
 ただし、その時、意識として自分が考えてのことなのかどうか、そこまで意識しているかどうかが気になるところだ。
 考えながら喋っているということを意識してしまうと、一度言葉に詰まってしまうと、先が続かなくなる。そういう意味で、感情に任せた話ができている方が、言葉はスムーズに出てくる。
「それだと、相手のことを考えていないかのようではないか?」
 と言われるかも知れない。
 しかし、逆も真なりであり、
「だったら、それが自然とできるように、普段から練習であったり、鍛錬という訓練をすることを心がけていればいいだけではないか?」
 といえるのではないか。
 確かに言葉でいうのは簡単だ。しかし、問題はできるできないではなく、まずは、そこに行き着くまでの発想が自分にあるかどうかということが大切なのだ。
 物事を成就させる時というのは、必ず段階を必要とする。その段階をいかに築けるかということが問題であり、そのために、日ごろから鍛錬をしておく必要がある。
 学生時代にする勉強というのは、知識を深めるためだけでなく、いざという時に活用できるよう、鍛錬ができる必要を養うためでもあるだろう。
 日ごろの訓練がいかに大切かということを分かりさえすれば、そこから、次第に考えることなく、勝手に自分が動くことができるようになることを、自らが知ることが大切なのである。
 そのことをどこまで分かることができるか? 彼女との会話でうまく話すことができなあったということが、その後の自分の人生にいかに影響してくるかということが分かってくるのだった。
 相手の女の子の気持ちもどこまで分かっていたのか、自分でもよく分かっていない。
「分かっていると思うのは、自分が傲慢な証拠だ」
 という思いが、付きまとってくる。
 だから、自分から率先して話ができないのだ。
 それは、
「俺が男で、相手が女だからだ」
 という理屈ではない。
 確かに、性別の違いというのは大きい。ただ、それは、思春期くらいのことであって、青年期に入ってくれば、男子であっても、女子であって、会話にさほど大きな差はないかも知れない。
 お互いに思春期というものを味わってきて、男女の違いを身に染みているはずだ。ただ、そんな中ですれ違ってしまった彼との感情なのか、タイミングなのかが、分からなくなっている。普段からプラスアルファの会話ができる相手に、その助言を聞くというのも、無理もないことなのだろう。
 彼女の気持ちを分かっているつもりでいたのに、どうしても、言葉が出てこない。
「何を言っても言い訳にしか聞こえない」
 という時が、何か自分の中に後ろめたさがある時には絶対に出てくるものだ。
 だから、言葉が出てこない。何かをいうたびに、自分の首を絞めているようなものだという考えは、以前、友達に言われた言葉を思い出させた。
「将棋で一番隙のない布陣とは、どういうものなのか分かるかい?」
 というものだったが、
「いや、分からないけど」
 というと、
「それはね。最初に並べた布陣なんだ。一手打つごとにそこに隙が生まれるというものさ。身動きができないときというのは、その感覚を感じた時か、思い出した時なんじゃないかな?」
 と言われた。
 確かに、最初の言葉がタイミングよくうまく出てこなければ、時間が経てば経つほど、言葉が出てこなくなる。
「相手は次どこに打つだろう? するとこっちは、あそこに打って、すると相手が今度は……」
 などと、袋小路に入り込んでしまう。
 最初から次の思想までに、無限の発想が生まれてきた。さたに次の発想は、無限からさらに増えるのだ。
「無限から増える? そんなことがありえるのか?」
 と、まるで禅問答のような感覚に陥っていた。
「無限というのは、増えないから無限なんだ」
 ということである。
 だが、それ以上に、無限の発想をいかに自分で判断するかということが問題になるのだが、そのためには、可能性というものを、自分の今まで生きてきた経験のパターンに当てはめる必要がある。
 ただ、無限というもの、
「無限から増えるということが不可能なように、無限というものを分割することも無理である」
 という発想だ。
「無限から何を割っても無限にしかならない」
 というのが、数学における真理だとすれば、
「無限というものは、四則演算ができるものではないということであり、捉えることのできない抽象的なものなのだ」
 ということになるであろう。
 そう考えると、将棋の最初の布陣は、
「無限に限りなく近いものだ」
 といえるだろう。
 それは、
「ここが一番の絶頂であり、それ以上というものは、同等はありえても、上というものは存在しない」
 という解釈になるのではないだろうか?
 そんなことを考えていると、堂々巡りをまたしても繰り返してしまっているのだった。
 結局、彼女にならアドバイスのようなものを送ることのできなかった佐伯は、彼女とはそれ以来、気まずくなってしまい、話ができなくなった。
 お互いに連絡を取ることもなく、いわゆる、
「自然消滅してしまった」
 というところであろう。
 だが、彼女に話をしなくてよかったとも思う。なまじ中途半端なことを言ってしまって、人によっては、その言葉を全面的に信じ、その通りに行動してしまい、取り返しのつかないことになってしまい、立ち直れなくなることもあるだろう。その責任まで負わないといけないのだろうか?
 いや、元々は信じる方がおかしいという考えもある。人の言葉を鵜呑みにしたからと言って、その責任を、よかれと思って助言をした相手に負わせてしまうというのは、実に酷なことではないだろうか?
 それを思うと、
「最初から助言なんかしない方がいいんだ」
 という考え方もある。
 助言さえしなければ、後悔は残るかも知れないが、大きな事故をこちらが招くことはない。
 進展にはならないが、より深く傷つけることはないだからだ。
 それを思うことが、そもそもの自分の性格の原点だと思った。
「傷つかないために、一歩が踏み出せない」
 この考えは、たぶん、100人の人がいれば、半数くらいはそう思っているのではないだろうか?
 そんな佐伯は、研究室に戻ってくる頃には、女性に対して助言ができるくらいになっているような気がしてきた。
 だが、前の会社での出来事を思い出すと、簡単に女性を好きになることはなかった。
「癒しがほしい」
 と感じることはあり、癒しを求めて、女性と仲良くなることはあったが、それ以上の進展があるわけでもない。
 相手も、佐伯の中に、今までになかったものを感じ、どうやら臆してしまうようだった。
 佐伯は、大学に戻ってきた頃には、
「人当たりがいい人」
 というイメージだ。
 本人は意識していなかったが、まわりから見れば、
「これ以上の人当たりの良さは、感じたことがない」
作品名:真実の中の事実 作家名:森本晃次