真実の中の事実
「人間の胃袋や体質をうまく利用したゲーム」
といってもいいのではないだろうか?
相手が逃げようとするところを、必死に捉えて頭を叩く、
「モグラ叩き」
のようではないか。
食い放題には、そのような魔力はないが、いつの間にか。最初に考えていたほど食べれないことに気づく。焼くまでに時間が掛かるからなのか。それとも、人間の特性として、匂いだけで、腹が満たされるという魔力なのだろうか?
そういえば。昔マンガなどで、お腹が空いている貧乏少年が、一膳のごはんだけを持って、うなぎ屋の前で、その匂いを嗅ぎながら、ご飯を食べて、
「うなぎを食べたような気分になった」
と言っているものがあったが、まさにそんな感じだった。
うなぎだけでなく、サンマなどのおいしい匂いにつられるというのは、ある意味、健康な証拠なのだろうが、そのマンガの本当の面白さが分かるのは、今の令和の人間ではなく、ひもじいという言葉に一番敏感な、昭和を生きてきた人間であろう。
といっても、昭和後半の人間にも、そこまでの食事に困るような経験をした人は少ないだろう。
それが分かる、かろうじての年代というと、今でいう、高齢者の人たちよりもさらに年齢を重ねた人たちである。戦争を知っている人ともなると、正直、化石と言ってもいいくらいの人たちになるかも知れない。
「なるほど、日本人が平和ボケするはずだ」
といえるだろう。
焼肉に舌鼓を打っていると、時間というのはあっという間に過ぎてしまうものだ。
「やはり、わんこそばの呪縛があるからなのだろうか?」
と感じた。
最初の頃こそ、
「90分なんてあっという間ではないか?」
と思っていたが、実際に、腹いっぱいになるまでに、30分もかからない。
皿に盛ってから、焼きあがるまでの時間を考えるから、かなりの時間が掛かるように思うのだろうが、焼き始めるタイミングすらずらずと、食べるのが追いつかないくらいに、焼きあがってくる。
しかも、わんこそばと違って、自分で調整ができるところが強みだ。
「何を食い放題で競っているんだ」
と、思わず吹き出してしまいそうになるのだが、実際に時間が余ったのは事実なので、笑い飛ばすには、滑稽ではあったが、実に自分らしいとも思うのだった。
腹が太ってくると、少し時間が余ったので、海の近くまで車を走らせてみることにした。この街は、海の近くに行くと、作が張ってあり、中が森のようになっているので、
「まるで自衛隊の基地でもあるのか?」
と思わせたが、実際に行ってみると、大きな煙突がいくつもあり、何かの工場のようにも見えた、
すると、1,2キロ走ったであろうか。正門が見えてきた。暗くて最初は見えなかったが、正門よりも、交差点の信号に掛かっている交差点名の看板を見ると、ここがどこなのか分かったのだ。
「そういうことか、ここは、製鉄所なんだ」
と思った。
就職活動の時、
「こんなでかい会社になんか入れるわけないよな」
と思ったのを思い出した。
そもそも、佐伯は、大学時代は、教育学部だったのだ。研究室に残るかどうするかを考えていたのだが、親から、
「大学に残るよりは、安定した会社に就職する方がいいのではないか?」
と言われたこともあって、就職に舵を切った。
それがよかったのか悪かったのかは、悪かったのであろう。それに関しては。今後の話になるわけだが、最終的な結論が見えているわけではない。世の中なんて、人生が終わってみなければ分からないのではないか。
以前、見た映画の中で、確かあれば、クーデターの話であったが、最期には、武装解除をやむなくすることになったその時、兵士から、
「我々の行動は正しかったのでありましょうか?」
と聞かれ、青年将校は、
「それは、歴史が答えを出してくれる。ただ、諸君は、堂々と胸を張って、原隊に復帰してくれ」
と言って、最期は拳銃自殺を図るというシーンがあった。
要するに、
「何が答えなのか、歴史しか分からない」
ということであり、自分が生きている間には、その答えを見ることができないかも知れないということである。
それを考えると、この日の夜から始まった、この街でのこれから送る日々が正しかったのか間違っていたのか?
もし間違っていたとすれば、どこが間違いだったのか、自分で理解できることがあるのかどうか分からないだろう。
そんなことを考えていると、令和になっての自分の送っている毎日は、あの頃に比べれば、そこまで不確定なものではないということであろう。
それはきっと、
「先が見えてきた」
という発想から、逆算している自分がいるからである。
かといって、いつ死ぬかなどということが分かるわけはない。それなのに、逆算できるというのは、あくまでも、例えば、
「80歳まで生きるとしたら、何ができるのか?」
と考えるからである。
それは、先が見えてきたと感じるから、見えないものが見えてきたからではないだろうか?
それを考えると、生きてきた経験と、残りの人生を比較して、先が見えなくて不安いっぱいだったが、それだけ先がまだ長かったのだということに気づかなかったことを、後悔するのか、それとも、それを踏まえて、今後の人生をいかに生きるかということを考えるかということで、どれほど生きるということが気楽になれるかということになるだろう。
もちろん、自分が年を取るのと同じで、世間も発展していっているのだ。どんどん新しいものができてくる。それが時代というものではないか?
昔は音楽を聴くのは、レコードとカセットくらいしかなかった。それがそのうちに、CDに変わり、MDというものがあった。
今の時代は、媒体を使うことなく、音楽をダウンロードする時代になったのだ。
何しろ、昭和の頃に、パソコンというのがあっても、ほとんど家庭向けではなかった。小さな事務所が事務に使うことがある程度だろうか? ただ、昭和の終わり頃から、かなり変わってきたのも事実である。佐伯が感じたのは、スーパーのことであった。
今でこそ、当たり前となっている、バーコードリーダーであるが、昔はあんなものはなく、レジスターの機械に、値札を見て、昔の英文タイプライターのようなものに打ち込んで、計算していたのだ。よく昔の刑事ドラマなどで、強盗がスーパーに入った時、レジの横の機械から、引き出しのようなものが飛び出して、そこに札や硬貨が入っていたのを、わしづかみにして、逃走しているのを見たことがある火とは分かるかも知れない。
そんなレジに、バーコードリーダーが入った時は衝撃だった。レジの台の上に、×印のようなガラスが入っていて、そこに商品を当てると、
「ピッ」
という音がして、機械に値段は自動で表示されるのである。
さすがに子供心にビックリさせられた。
そう、まだパソコンなどもほとんどない時代で、ビデオでさえ、家庭にあれば、
「金持ちだ」
と言われていた時代である。
そうやって、時代は発展してくる。今では、スマホで決済ができる時代で、カードすら古い時代になってきているではないか。
昔は、いろいろなカードがあったものだ。