小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

真実の中の事実

INDEX|2ページ/24ページ|

次のページ前のページ
 

 ウラン型は、広島に投下されたが、3日後、今度は長崎にプルトニウム型が落とされた。ただし、この時の当初の爆撃目標は、小倉市だったという。天候が悪く、長崎に行ったのだが、これには逸話が残っている。
「前日に、製鉄所を目標とした都市爆撃を、八幡市に行ったが、その煙が小倉に流れたから、視界が悪かったのが原因だ」
 と言われる。
 ということは、アメリカ側の勝手な都合で、小倉を断念するしかなく、仕方なく、長崎に行ったというのが、真実のようだ。
 小倉市というところは、それほど高い山があるわけでもないので、長崎のように、山に囲まれた場所ではないので、もし、小倉に堕ちていれば、被害はかなりのものであっただろう?
 何しろ、ヒロシマ型よりも、ナガサキ型の爆弾の方が、かなりの破壊力だったからであある。
 たぶん、数十万単位の死者が出ていたことだろう。それこそ、下関もただでは済まなかったことだろう。
 話が逸れてしまったが、それぞれの地域には、県庁所在地であっても、そうではなくても、結構な都会は存在するものだ。
 今では准教授として、近くの大学で教鞭をとっているが、昭和の終わりの頃、就職した会社の転勤で、この土地にやってきた時は、
「どこまで田舎に行けばいいんだ?」
 と思ったほどだった。
 名前を佐伯と言った。
 佐伯が通っていた大学は、大都会にあった。日本三大都市と呼ばれるところに隣接していたといってもいいくらいのところで、ここだけでも、十分に大都市であり、当然のごとく、政令指定都市でもあった。
 そんなところから就職して最初に、
「研修のため」
 ということで、半年の予定で赴任したところが、また中途半端な都会だったのだ。
 何にショックを受けたかというと、
「私鉄がない」
 ということであった。
 大学時代に住んでいたところは、狭い範囲に、平行して、国鉄と一緒に2本の私鉄が走っていた。どれに乗っても、目的地に着くことができる。そんな線が、3本もあったのだ。
 それを当たり前だと思っていたのだから、私鉄がないということに対して、カルチャーショックに陥るというのも、当然のことではないだろうか?
 それでも、国鉄とバスがあることで、移動に困ることはなかった。免許は取得していたので、営業車での移動には困ることはなかった。そういう意味で、
「やっぱり、車は絶対に必要だ」
 ということで、次の赴任地では、車を買うことを考えていた。
 半年経つと、約束通り転勤があった。
 新入社員が10人ほどいたので、シャッフルでもしたのか、ほとんど皆、別の支店に転勤になっていたのだ。
 佐伯は、転勤前に車を買った。転勤先までは、車で行ける距離だった。距離としては、約200kmほどで、時間にすれば、6時間くらいあればというところであろうか?
 研修期間だったので、荷物らしい荷物はほどんどなく、引っ越し用のトラックを雇う必要もなく、軽トラに積めるくらいの荷物だったので、荷造りもすぐにできた。
 引っ越し当日、車で6時間掛けてやってくると、そこには、支店の人が数名待っていてくれた。引っ越しの手伝いをしてくれるというのだが、そこまで荷物がないことは分かっていたのか、すぐに終わって、支店長を始め、営業の人は帰っていった。
「普通、ここまでしてくれるものだろうか?」
 と思ったが、さすが昭和だったということだろう?
 マンションなどであれば、普通だったら、隣に誰が住んでいるのか。そもそも、空き部屋になっても気づくかどうか分からないということであろう。
 その日は、あっという間に時間が過ぎてしまい、運転もここまでの長距離は初めてだったので、会社の人が帰ったタイミングで、布団も敷かずに、そのまま眠り込んでしまったのだった。
 気が付けば、日が暮れていた。さっきまで、当たっていただろう西日のせいなのか、身体にはじんわりと汗を掻いていた。
 アパートには風呂もついていたが、その日はさすがに沸かしてまで入る気がしなかったので、とりあえず、お腹も減ったので、車で近くを走ってみることにした。
 まだ、二十歳そこそこなので、今からは想像できないほどの食欲であろう。
 それが分かっているので、メイン道路を走ることにした。
 当時は、焼き肉食べ放題の店が、ドライブイン形式の店として結構たくさんできていた。令和のように、注文しないと出てこないわけではなく、セルフサービスで、ショーケースの中から、自分で皿の上に、トングを使って、好きなだけ取っていくというやり方の店だった。
 今のように、人見知りする人が多いと、
「昔の方がよかったかも知れないな」
 と思うことだろう。
 いつものように窓際に座って、(というのは、この店に限らずということであるが)、真っ暗な窓の外を見ながら、鉄板が熱くなってくるのを待って、肉を焼いていく。
 すでに匂いで食欲は最高潮になっていて、皿に盛ってきたのが、果たして何人前なのか、想像もつかずにいたが、実際に焼いてしまうと、次第に小さくなってくるのが分かった。特にホルモン系は、あっという間にコメ粒ほどになってくるから恐ろしい。そのせいか、まるでゴムを噛みちぎっているかのような感触に、違和感があったが、噛めば噛むほどに沁みてくる味に、
「これは病みつきになってしまいそうだ」
 と感じてしまったほどだ。
 今でも、時々焼き肉のいい匂いがしてくると、この時の食欲がよみがえってくるようだった。
 正直、あの頃の食い放題というと、
「学生のような、味よりも量を欲する連中が、がっついて食べるものだ」
 という感覚でいた。
 だから、その頃の食い放題の焼き肉屋というと、学生連中か、家族連れが多かった。子供たちの食欲もハンパなく、にぎやかに食していたものだ。
 90分だったか、時間が決まっているのだが、正直、最初にどんどん食べてしまわなければ、ゆっくり食していると、食べられるものも食べられなくなってしまう。これは、
「わんこそば」
 の理論だ・
 と感じた。
 盛岡で有名なわんこそば、あれは、魔術のようなものだと思っていた。
 例えば最初大人数で食べ始めると、最初は皆まだお腹が空いているので、いくらでも食べられるのだが、食べる人間に対して、お椀におかわりを入れていく人間がまだ少ないので、おかわりまでに少し時間がある。
 だが、次第に少しずつ、皆ギブアップしたり、自分で蓋を閉めて、そこでゲームオーバーにする人が増えてくると、今度は、食する人間よりも、お椀に入れる人の方が多くなる。
 その頃になると、食べる方も、最初の勢いが鈍ってくる。鈍ってくるのに、入れる方が早いと、油断できなくなる。
 わんこそばは、椀に入っているものは食べてしまわないといけないルールなので、危ないと思えば、蓋を閉めるしかない。
 しかし、入れる方は虎視眈々と入れるのを狙っているのだ。しかも、最初は1対1くらいだったものが、今では5対1くらいになっている。そうなると、蓋を閉めるタイミングが完全に競争になってしまう。
 最初の食べれる頃にはゆっくりなので、思ったよりも、最初の方は、食べていないわりに、お腹が張っているのだ。これが、
「わんこそばの魔力」
 であり、
作品名:真実の中の事実 作家名:森本晃次