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真実の中の事実

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 ということなのだが、その当たり前のことを、今まで味わったことがなかったことに、その時初めて気づいたのだった。
 その当たり前のことを味わったという意識はなかったのだが、むしろ、それを、
「どうして味わわないといけないのか?」
 という思いがあった。
 味わわなくてもいいことで、嫌なことであれば、できればスルーしたいと思うのは当たり前のことではないか。それが、ダメになった時、ショックとして残ってしまうと、それがどれほど辛いものなのかということだけは分かっている。それを敢えて引き受けなければならないかということを考えると、
「恋するって、一体何なんだ?」
 と思ってしまう。
 妊婦が、あれだけ苦しい思いをして子供を産んで、
「もうあんな思いしたくない」
 と言いながら、
「そんなことを言っている人が、たいていの場合、またすぐにやってくるものなのよ」
 と、看護婦の間では、母親のそんなセリフに、一切の信憑性を感じることなく、鼻でせせら笑っているかのような態度が普通だったりする。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」
 という言葉もあるが、それ以上に、
「子供が可愛い」
 ということが、最終的な心理だということに気づくのだろう。
 それは、人間の持って生まれた真理であり、それは恋愛にも言えることではないだろうか?
 生きていくうえで絶対に必要なものではないが、それがないと、生きていくのに、圧倒的な不利を感じてしまうというのも真理であろう。損得勘定で動いてはいけないということであろうが、生きていくうえで、損得勘定と同等のものがあるはずだ。だから、考えることで解決することもある。それこそ、真理だといえるのではないだろうか。
 そんな彼女を、説得しなければいけないと思った。これまでに感じた、未練とは違っていると思ったが、未練には違いない。しかし、同じ未練でも、その種類が違うのだ。
「このままでは、後悔が残ってしまう」
 というところまでは同じだったが、
「今回を逃せば、もう後はない」
 という覚悟のようなものがあった。
 それは、後がないというよりも、
「これ以上に、好きになる女性は現れない」
 という意味が強かった。
 これは、覚悟とは違うものであり、覚悟ほど必要なものではないかも知れない。それよりも、
「これがないと、覚悟を実行することができないというもので、覚悟に対して、自分が勇気を持てるか?」
 ということなのだった。
 このまま突き進むことは確かに怖い。怖いからと言って、持ってしまった覚悟を引っ込めることは、完全な後悔に当たる。
「人は、一生のうちに何度か、覚悟を示す勇気を持たなければいけない」
 ということを聞いたことがあった。
 それはまさしく、そういうことではないのだろうか?
「ダメかも知れないが、自分をどこまで貫けるか?」
 という思いであり、それこそ、玉砕に近いものだ。
「玉砕というと聞こえは悪いが、持った覚悟を勇気に後押しされて、行動に移すことではないか」
 と考えれば、
「勇気を持つ勇気が生まれる」
 というものである。
 それがトリガーとなり、前に進もうとする。
 もちろん、どこまで冷静になれるかという問題はあるが、覚悟と勇気には、冷静さは関係ない。そんなバカな行動をとることができるのが、若い時である。
「何度だって、やり直しはできるんだ」
 というのが、いいわけではないということである。
 言い訳だとしても、して言い訳があるとすれば、この時だといえるのではないだろうか?
 佐伯は、
「どうして、そんなに僕と一緒にいたくないんだ?」
 と聞いた時、
「私には自信がない」
 と言った。
 それは、前の時の経験があるからだろう。それを無理に、
「俺とだったら大丈夫だよ」
 と簡単にはいえないだろう。
 何しろ、自分には、前の人との関係を全く知らないからだ。
「和代には結婚を考えた人がいた」
 ということを佐伯が知っているということを、自分から話しているので、気持ちは分かってくれるだろうと思ったのだろう。
 確かに、過ぎてしまった時間に何があったのか、そして、結果、和代の中に残ってしまった後悔や辛さがどのようなもので、どれほどのものかというのは分からない。特に気にしていないように見えて、佐伯はとても気にするタイプだった。
「俺の知らないところで、和代さんは、他の人と……」
 と思っただけで、実にたまらない気持ちになるのだった。
「もっと早く知り合いたかった」
 と言っても仕方がないのは分かっているが、結局そこにくるのだ。
 どうしようもないことを、どうしようもないといってスルーできるほど、佐伯は冷静にはなれない。
 熱情的になるのが、恋愛だと思っている。情が熱くなったわけではなく、熱くなった情なのだ。情というのは人に対して感じるものであるが、もっといえば、自分の中で燃え滾っているのが、情なのだ。
 そう思うと、耐えられなくなるのも無理もないことで、だからこそ、一度もめてしまうと、その時初めて、
「抱いていた相手は他人だったんだ」
 という当たり前のことを感じさせられるのだ。
 一番強い思いは、
「和代の中に、まだその人がいるんだ」
 という感覚だった。
 このままだったら、自分は完全に負けてしまう。絶対に敵わないと思い子でいるからだ。この感覚は、これまでにも何度となく感じてきたことだった。
 人と、いろいろ関わってきた中で一番の敗北感を感じさせられる時というのは、そのほとんどが、この敗北感に見舞われる時だった。
 人とのかかわりに、必ず競争心が絡んでくるのが学生時代だった。友達であっても、基本的には平等であるため、それだけに競争心が宿るのだ。就職すれば、同期組などであれば、競争もあるだろうが、先輩は最初から先輩で、
「追いつきたい」
 と思うことはあっても、競争ということはない。
 それは後輩に対しても同じことで、そう思うと、後輩に対しては、自分が先輩であるということと、年上ということもあって、プライドがあるのだ。しかも、自分が先輩に対して抱いていると同じ思いを抱いているはずだと考えることで、相手も、きっと平行線を感じ、競争心などないと勝手に思い込むことで、最初から闘争心はない。
 闘争心が、競争心の根源であるのだとすれば、競争心の芽生える環境は整っていないということだ。
 となると、同学年が、ほとんどの世界を形成する中学、高校時代は、受験という最終目的があるため、自動的に競争の世界であり、そこに競争心がなければ、お話にならないということになるのであろう。
 学生ではなくなって、同じ会社の人であれば、先輩であっても、競争心を持たないが、会社の違う、しかもあったこともない人間だとすれば、それは、交わることのない平行線として意識することであり、追いつくことは永久に不可能なのだ。
 そんな相手をどうして意識できようものか、まるで、死んでしまった人間を追いかけようというようなもので、本当であれば、意識しなければいいだけのことなのに、それができないとすれば、それは、果てしなく彷徨わなければならないということであり、いかに気持ちを平常に保たせることができるかという問題でもあるのだ。
作品名:真実の中の事実 作家名:森本晃次