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真実の中の事実

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 その間に、就職活動があり、就職してから、研修期間がありと、正直彼女を作るという感情にはなれなかった時期だった。
 だが、自分に自信がなかったわけではない。もし、自分に自信が持てることがまったくなかったら、就活の時か、あるいは研修期間中に挫折していたかも知れない。
 実際に、就職活動の時にも、研修期間中にも気持ち的に挫折してしまって、逃げ出したやつもいた。
 その都度、
「俺は、あの連中とは違うんだ」
 と自分に言い聞かせてきたのだが、何が違うのかということについて。言及しなかった。
 それは、自分でその理由を分かっていると思っていたからで、それが勘違いだということをまったく感じなかった。それが、よかったのか悪かったのか、その時は分からなかったが、正直、よかったと思っていたが、どこかのタイミングで悪かったと思うのではないかと思うと、それが、自分の負へのターニングポイントになると思うのだった。
 最初は、和代は佐伯と話をしようとは思わなかった。たぶん、
「このまま自然消滅させることが一番いい」
 と考えたのだろう。
 自然消滅させることの方が傷つかずに済むからである。自然消滅ということは、お互いに話もしないから、自分だけの世界に入ることができる。失恋した心を癒すには一人で考えるのが一番であり、そんな時に、思い出が詰まった相手の顔を見てしまうと、せっかくの決心も鈍るというものだ。
「失恋の痛手は、時間を掛ければ掛けるほど辛い」
 という考えと、
「時間が解決してくれる」
 という考えのそれぞれを持った人がいる。
 だが、それは、諦めが本当についているかどうかによって決まるのではないだろうか?
 本当に諦めがついている人であれば、
「時間が解決してくれる」
 と思うだろう。
 それは、本人が一歩先に進んでいると思うからである。しかし、諦めがついていない人にとって、いくら時間が掛かったとしても、それは、諦められないという気持ちを自分で再認識する時間なのかも知れない。そう考えれば、
「時間というのは、痛手を深くするための時間でしかない」
 と考えれば、本人は、自分が優柔不断なことが一番辛いと思うのではないだろうか?
 そう思ってしまうと、時間を進めることが、怖くなる。
 かと言って、その場にとどまるというのも怖いものだ。
 それは、強風が吹きすさぶ中、断崖絶壁に掛かった橋を渡っているようなものではないだろうか?
 進んできてしまうと、戻ろうとしても、先に進もうとしても、どっちに行っても、恐ろしいものだ。
 現実的に考える人は、たぶん、元来たところに戻ろうとするだろう。どうしても、その先に行かなければいけない場所があるわけでもない限り、間違いなく戻るはずだ。
 なぜかというと、
「自分の本当の居場所は、元の場所にある」
 と気づくからだ。
 それが我に返るということではないだろうか? 背伸びして先に進もうとして、そこで躓いてしまうと、その場所は自分が目指すべき場所ではないと思い、
「もし、突き進んで戻れなければどうしよう」
 と考えるからである。
 少なくとも、子供の頃と、今はそうである。いつ頃からこういう考えになったのか分からないが、人間というものは、必ず現実味を帯びた考えになるものだ。
 それだけ、人生経験を積んできたということであり、理屈では言い表せないものが、潜んでいることを、生きてきた間に経験するからである。
 それは、あぜ道を舗装しただけのような、一本道をずっと歩いている時にも感じる。そんな時、必ず途中で、何度か後ろを振り返ってしまうものだ。
 それは、自分が歩んできた距離を感じるためであり、前ばかり見ていると、果てしなく続く道の目的地がまったく見えてこない。そんな道でも、後ろを時々振り返ると、
「これだけは着実に歩いてきた」
 ということを感じる。
 それが、
「まだ、ここから前に進んでもいいんだ」
 と自分に言い聞かせることのできるものだということを、思い知らせてくれる。
 疲れのわりに、前に進んでいる感覚がないということほど怖いことはない。それは、
「身体だけが自分の努力を分かってくれている」
 ということを自覚できるからだ。
 疲れであったり、痛みが襲ってくるのは、自分が努力した証であり、確実に自分の存在を証明してくれるものだ。心は、どうしても、事情やまわりの状況によって変化しかねない。だが、身体だけはウソはつかない。病気になれば、痛かったりして、自分に危機を教えてくれるではないか。
「心身ともに」
 という言葉があるが、まさにそのことを証明しているといってもいいだろう。
 失恋の痛手を、努力で何とかなるというのは、ある意味傲慢なのかも知れない。人を好きになるという心境を、バカにしているといってもいいではないか。あれだけ人を好きになることを神聖なことだと思っていたのは、ウソだったというのか。
 失恋というものがどういうものであるか、正直、まだよく分かっていなかったのが学生時代だったということを、この時思い知らされた気がした。
 学生時代というのは、嫌いになることは決してないが、かと言って、無理に追いかけることはしない。追いかけ方が分からないので、追いかけようとすると、それは今でいうストーカー行為に抵触してしまう。
 実際にそれらしい行為に挑んでしまっていることもあったくらいだ。何しろ、携帯電話のようなものはなく、簡単に連絡できるわけではない。必ず電話を掛けようとすると、家の固定電話になるだろう。
「親が出たらどうしよう」
 という問題もある。
 しかも、別れ話など、電話でできるはずもなく、大人になれば、それくらいのことは分かるはずなのに、恋愛に疎い学生時代は、どうしても話をしようとすると、相手が学校が終わるのを待ち伏せるなどというマネをしてしまう。
 今でこそ、ストーカーとして摘発を受けたり、職務質問くらいはされるであろう。
 学生であっても、相手のプライバシーに入り込むことは許されるはずもなく、今ならストーキングだけではなく、個人情報保護の観点から、本当に許されることではないのだ。
 そういう意味で、今はしっかりと法律に守られたいい時代になったといえるかも知れないが、それも一長一短で難しいところでもあったりする。
 しかし、それも、本当に最初の頃だけのことであった。大学に入り、二年生以降くらいになると、人を好きになるのも、簡単であり、失恋も簡単だった。失恋すれば、確かにその時は辛いが、あっという間に冷めている自分がいる。
 そして、また他の人を好きになるのだ。
 それが、大学時代という開放的な時期だったりする。
「たくさんの恋愛をするのが、学生時代だ」
 などという先輩の話を、話だけ真面目に聞いて、それをクソ真面目に実践しようとしていた。
 それは、ただ、理屈も分からずにやっていることで、ただの、モノマネにすぎないではないか。
 そんなことを思うと、学生時代はまるで、ままごとのようだったとしか思えない。
 だが、今回の和代との恋は、真剣だった。
 相手のことを思えば思うほど、忘れられなくなる。
 それは当たり前のことで、
「何をいまさら」
作品名:真実の中の事実 作家名:森本晃次