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症候群の女たち

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 ペリー来航から始まる開国から、安政の大獄、桜田門外の変と、最初は、攘夷運動が盛んで、
「外国人打ち払い令」
 というものが出たりしたが、結果、攘夷派としての急先鋒であった薩摩と長州がそれぞれ単独で外国と戦い、手痛い敗北を喫することで、
「外国の力を思い知った」
 ということになった。
 そのため、それぞれの藩は、
「尊王攘夷」
 という理念を抱き、
「そのためには、倒幕が必要だ」
 ということになった。
 そんな時代に、力づくでの倒幕が必要として、薩摩、長州、土佐、佐賀などの藩が結んで、朝廷に歩み寄り、幕府を倒すということで、幕末の戊辰戦争が起こることになるのだ。
 紆余曲折があっての倒幕が完成し、新しい時代の明治政府ができたのだが、それが落ち付いてくるまでに、数十年かかった。そして、それまで諸外国と結んでいた不平等条約が解消されていくまでには、さらに時間が掛かることになるのである。
 そんな幕末という時代も、ドラマなどでよく登場する。
 この三大時代というのは、歴史を時系列に見ても面白いが、人物に絞ってみても、興味深い人が多い。
 治承・寿永の乱の時代であれば、平清盛、源頼朝、義経などであり、戦国時代は多すぎるが、織田、羽柴、徳川の天下人であろう、そして幕末もたくさんいるが、西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬などが、その代表であろうか?
 さらに、本能寺の変であったり、竜馬暗殺という、歴史の最大ともいわれるミステリーが起こったのもこの時代ということは特筆すべきことであろう。
 こんな時代に興味を持っていると、それ以外の歴史も勉強したくなる。それは、歴史には、
「原因があって結果がある。それが事実となる」
 と考えると、何かの結果が出れば、そこに原因があり、その原因が、前の時代から続く結果だったりもするだろう。
 そうなると、歴史を時系列にして、縦で勉強してみたいと思うのも無理もないことで、だからこそ、歴史は楽しいのだ。
 そうやって見ていくと、自分にとってブラックボックスだと思っていた時代にも、意外と興味深い人や、地元に関係のある人がいたりして、そんな人の歴史を知ろうと、名所旧跡を訪れてみるということも大いにあるだろう。
 そんな時代を勉強していると、歴史が好きになってきて、歴史的な背景を元に本を読むと、本を読むことの醍醐味である想像力が、湧きたてられるのであった。
 歴史の本というと、今まではノンフィクションを読んでいた。人物や事件を、史実に基づいた話を読むことで、直接的な歴史の勉強をしていると思うのだった。
 だが、そんな小説を読んでいく中で、一度読んだ本がフィクションで結構面白かった。タイムトラベルもので、SFチックだったのだ。
 歴史の本の中には、
「歴史小説」
 と言われるものと、
「時代小説」
 と言われるものがあるという。
 歴史小説というのは、史実に基づいて、人物や事件について書いているものであり、時代小説というのは、時代劇と呼ばれるような架空の人物が主人公であったりするものだ。時代小説というのは、登場人物に実在の人物がいてもかまわないし、史実と違って、筆者の歴史に対する独自の解釈であったり、読者が面白いと思えるエンターテイメント的な小説であってもかまわない。
 しかし、歴史小説であっても、時代小説であっても、基本的に時代考証というものが狂っていてはいけないだろう。もし、時代考証が違っているのであれば、それは時代小説ではなく、SFであったり、ミステリーであったり、コミカライズな小説となるであろう。
 ゆいかが読む小説としては、時代小説であっても、歴史小説であってもいいのだが、完全なフィクションではなく、少なくとも、登場人物の中には実在の人物がいて、ある程度史実に近いものが多かった。ただ実在する人物であっても、立場がまったく違ってるという小説は、史実と比較して読めるということで、興味を持って読める小説だといえるであろう。
 そのうちに、今回読んでいる小説の中には、SFチックなものでありながら、そのSFが心理学的な発想を持っていることで、時代小説が、SF風であり、オカルトの要素もはらんでいた。
 読んでいるうちに、
「これは、オカルトだ」
 と感じるようになってくると、オカルト小説というものが、そもそも、SFであったり、ミステリーであったりなどの、いろいろな小説が絡んで切ることに気づかされるのだ。
 そんなことを考えていると、
「私も小説を書けるようになるのではないか?」
 と感じるようになってきた。
 ただ、実際に書いてみたいのは、オカルト小説で、このオカルト小説というものほど、書き始めはそこまで難しくはないが、終わらせ方が実に重要なのだ。
 探偵小説や、SFは、とにかく書き始めが難しい。それはある程度まで小説の落としどころを理解していないと、書けないということである。
 特にオカルトは、SFや、ミステリー、さらには、奇妙な話を、最後にうまく絡ませて、伏線をしっかりと回収しなければ、書けるものではないというものだ。
 最初に伏線を敷いておくことが重要であるのだが、そんなに簡単に小説が書けるものだろうか?
 小説を書いてみたいと思ったのは、中学三年生の頃だった。
 最初は、高校受験の息抜きになればということで気楽に書いていたが、高校に入学すると、そこで、高校の文芸サークルに入った。
 そこでは、あまり高い部費ではないので、安めになってしまうが、一年に数回、同人誌のようなものを発行していた。
 まずはそこに載せてもらうというのが第一の目的だった。
 最初に書いた小説は。
「自分が誰かの生まれ変わりだと思っている」
 というような話だった。
 その話は、ゆいかとしては、
「それは自分が実際に体験した話だ」
 と書いていると、内容的には、到底信じられるものではない。
 それなのに、妄想という感じが代わりにはないようだった。
 どちらかというと、
「妄想ではなく、瞑想」
 という感じで、
「妄想というと、架空の話をあたかも本当のことのように感じることであって、瞑想は、自分一人で、自分の世界に入り込むことで、ウソだと思うことであっても、本人には本当のことでしかないようにまで感じることなのではないだろうか?」
 自分の中で、考え込みすぎると、普通は瞑想に陥るものだ。これが妄想にまで行ってしまうと、考えていることを、眠気が覆いかぶさってくるようになり、考え込むことが却って、
「妄想しているのではないか?」
 と思い込んでしまうのであった。
 妄想と瞑想の違いについて考えあぐねてしまっていると、
「妄想と、瞑想、どっちを思い浮かべた方が、小説として自分の納得がいくものが書けるか?」
 と考えた時、
「瞑想ではないか?」
 と思うのだ。
 妄想を抱いていると思うと、自分が、妄想に支配されているような気がしてくる。
 瞑想は抱くものではなく、一人で冷静になって感じることで浮かんでくるものだった。
 妄想は、思い抱かなくても、心の中に潜んでいるものを、架空の存在として感じることが、心の奥から滲め出てくるものだと思うと、瞑想のように、抱くことが難しいものではにないと思うのだった。
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次