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症候群の女たち

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 中学に入ってから、主君に見放され、初めて味わった孤独感。
「こんなに寂しいなんて思ってもみなかった」
 と感じたが、それを孤独感というのだということは分からなかった。
 孤独感という言葉は聞いたことがあったが、その意味はよく分からなかった。漠然として分かっているつもりでいたが、まさか、自分がその孤独を怖がって、人に寄生していたのだということも分かっていなかったのだ。
 人の奴隷になることも、一種の奴隷状態だったのだろう。これでこそ、封建的と言っていいだろう。本人は、
「奉仕がすべてだ」
 と思っていたが、相手は寄生されているとしか思っていなかったかも知れない。
 そんなことを考えていると、
「自分が人に寄生していたことを知らなかったのは、自分だけなのかも知れない」
 と思うようになった。
 その時、初めて、恥ずかしいという感情が湧いてきた。
 恥ずかしいという言葉の意味もよく分かっていないくせに、感情が、恥ずかしいといっているのだった。
 そう思っていると、そこから自分が改めて、孤独になったことを感じた。
 恥ずかしいという感情が、孤独からしか生まれないのではないかと思ったからだ。
 確かに奴隷の間、どんなに恥ずかしいことであっても、恥ずかしいとは思わなかった。
「奉仕をしているんだ」
 と思うと、恥ずかしさを感じる暇もなく、そこには快感があった。
 その快感は、精神的なものなのか、肉体的なものなのか分からなかった。
「考える前に、身体が反応してしまう」
 と思ったからだ。
 恥ずかしいという感情が快感に変わってしまうことで、本来なら、その間に感じるべきものを感じない。だからこそ、快感に一気に移るのだ。
 それが何なのか分からない。そんな時に、孤独に苛まれる毎日が訪れた。
「私はどうすればいいんだ?」
 と感じ、まわりを見てみた時、一番安心できそうな表情をしている人が、
「いつも笑顔の人なんだ」
 と感じた人だった。
「そっか、笑う門には福来るということわざがあるけど、笑っていれば、安心感があるんだ」
 と思い、とにかく分かってみることにした。
 まわりがどう思おうが、笑っていると、安心感があると思い込むことで、実際に楽しい気分になってきた。
 まわりからは、
「さくらの愛想笑い、気持ち悪い」
 と言われているという話は聞こえてきたが、本人が、
「愛想笑いなんかじゃないんだ」
 と思っていることで、
「別に、気持ち悪がられることはない」
 と感じた。
 ここで思い出したのが、快感というものだった。
 快感というものは、まわりが自分のことを勘違いして、可愛そうだとか思っていたとしても、実際には幸せだということで、欺いているということにも、快感を感じるのだと思うと、
「人の感情なんて、案外曖昧なものなんじゃないかな?」
 とも、思うようになった。
「自分が楽しいと思えば楽しい。辛いと思えば辛い」
 と思うものだと考えるようになっていたのだが、その時期はそんなに長くもなかった。
 それを感じた時が、思春期だったというのも、運が悪かったのかも知れない。
 一番精神的に曖昧な時期に、曖昧で答えが出ないような思いを感じるというのは、何とも言えずに、そう、流動的だという考えに至るものだった。
 ただ、一つ言えることは、
「無理して笑う必要はないが、笑ってもいい時に、笑えないようになってしまうと、これほど辛いことはないといえるのではないだろうか?」
 と考えることであった。
 さくらにとって、何が楽しいのか、そのことを考えるようになれるまで、まだまだ時間が掛かるのであった。
 そのうちにさくらは、自分の笑顔が、
「本心からのものなのか?」
 それとも、
「愛想笑いなのか?」
 ということで、悩むようになってきた。
 本心からの笑いだと思うと、愛想笑いに思えてくるし、愛想笑いだと思うと、ちょっと欲が出てきて、本心からの笑いだと思いたくなる。
 気が楽なのは、後者の方なのだが、自分らしいという意味では前者の方ではないだろうか?
 と、さくらは考えるようになっていた。
 今までのさくらは、後者だっただろう。
「いかに楽をするか?」
 ということが自分のステータスだと思っている。
 それは、奴隷に甘んじてきたことが、寄生しているということだということを認めたくないという意味で、その答えを、
「楽したい」
 ということで片付けようと思っていたからであろう。
「フレゴリ症候群」
 という言葉はあまり馴染みがないが、さくらは、中学生の頃に誰かから聞かされた気がした。
 その時は、
「私には関係ない」
 と思っていた。
 そもそも、そのフレゴリ症候群というのは、
「誰を見ても、それを特定の人物と見なしてしまう現象。全くの見知らぬ他人を、よく見知った人物と取り違えてしまう現象」
 だと言われている。
 子供の頃に主君だった人から捨てられることになって、少しの間、
「誰を見ても、自分の主君に見えてしまう:
 という、錯覚を感じたことがあった。
 それはきっと、
「誰でもいいから、今の自分のこの状況を救ってほしい」
 という感情がある中で、しかしながら、それを与えてくれるのは、主君その人でしかありえないという結論を導き出すための錯覚であり、
「結果、自分が孤独になってしまったということを、錯覚ではなく、実感として感じてしまうことになるのだろう」
 と思うのではないかと感じるようになっていった。
 それを考えてしまうと、
「何が錯覚で、何が正しいのか、分からなくなってくる」
 ということであり、結局、
「自分を救えるのは、自分でしかないのだ」
 と思うのだった。
「フレゴリの錯覚」
 というのは、そんな自分の先行きを示すために、
「通らなくてはいけない道というものに、敢然と立ち向かうという意味での、症候群なのではないか?」
 と考えさせられるのだ。
 ここでいう、
「フレゴリの錯覚」
 というのは、前章で出てきた、
「カプグラ症候群」
 とは違った意味での、本来なら、精神疾患とも思える、妄想のようなものだと解釈できるのだろうが、さくらにとっての、
「フレゴリの錯覚」
 というのは、精神疾患というものとは種類が違っているように思えた。
 どこか宗教的な考えが残ってしまうことと、錯覚というニュアンスで、あまりいいイメージがあるわけではないが、
「いかに、どう解釈すればいいのか?」
 ということを考えると、自分が楽をしたいと思ったことと、深くかかわりがあるように思えてならない。
 それこそが、
「さくらにとっての、フレゴリの錯覚だ」
 といえるのではないだろうか?

                 生まれ変わりの女

 ゆいかが、自分のことを、
「誰かの生まれ変わりではないか?」
 と思うようになったのは、中学に入ってからのことだった。
 その理由は、中学に入ってから、本格的に習うようになった、歴史の授業の影響だった。その頃になると、本を読むのが好きになっていた。恋愛小説など、読みたいと思っているのだが、どこかに躊躇があった。
 その理由としては、
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次