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症候群の女たち

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 ということが、もったいないと思うことで、これから大人になる思春期を迎えることになる。
 思春期を迎えて初めて分かるのだが、思春期というのは、実に精神的に不安定であり、その理由が、
「好奇心が旺盛で、自分の存在や気持ちがどこにあるのか分からなくなる」
 という意味だということを、不安定でありながら、自覚するのであった。
 だが、そんな思春期を過ごしていると、次第に見えてくるものがある。それが、
「思春期というトンネルの出口であり、その向こうには大人が広がっている」
 ということであり、子供から思春期、そして大人になるという過程が、自分の中で次第に分かってくるのである。
 だが、さくらのような女の子は、子供から思春期、そして大人になるという過程を意識しているのだろうか?
 すでに子供の頃から、
「私は奴隷だ」
 という意識があるので、成長という意識はない。
 しかも、奴隷というものを自らが受け入れたことが大きな問題なのだが、本人は、
「それのどこが悪いのだ?」
 と思っている。
 もし、これが封建制度のような関係であれば、
「自分は君主に守ってもらえる」
 という意識があったのかも知れない。
 そこには、まず大前提として、
「自分は弱い人間なんだ」
 という意識があるからだろう。
 自分が弱いということを自覚しているから、誰かに守ってもらわなければいけないという、自然の摂理を早くも感じ取ることで、自分の生き方を決めている。
 これは、自然界にもいるような、
「強い動物に寄生することで守ってもらう」
 という持って生まれた本能のようなものが動物にはあって、それが次第にその動物の生き方として根付いているといえるのではないか?
 人間にだってそういう意識はあるだろう。ひょっとすると、先祖代々、そういう生き方をしてきた家系なあのかも知れない。
 父親も会社で、誰か権力を持った人間につくことで、自分の存在を会社内で生かそうとしたり、母親も、自分から奥さん団体に所属し、いち早く、その中でのリーダーになる人を見抜いて、その人に取り入ろうとする。
 そう、こんな性格で生き残るには、
「リーダーが誰なのかということを、誰よりも早く見抜いて、そして一番に取り入ることができるかどうかで決まる」
 ということである。
 こういう生き方をしようと思えば、躊躇してはダメだ。
 とにかく、取り入るにしても、一番であること、そして、そのスピードが誰よりも早く、取り入るということが必要だ。
 ここまで隙がなく相手に取り入れば、相手はその人を、
「ただ取り入ってきただけだ」
 とは思わずに、その人の才能に、一種の力を見出すことになるだろう。
 そこには、一定の尊敬の念も含まれているかも知れない。君主も一目置くような存在に、
「この人がいなければ、自分の存在もない」
 と感じることだろう。
 ただ、悪いことに、本人が奴隷のように思ってしまうことで、君主が勘違いをしかねない。
 それがこの関係の一番の隙になるところである。
 というのも、
「この人についていけば間違いない」
 という思いが、次第に安心感に繋がっていくと、そのうちに胡坐を掻いているかのような気持ちになってくる。
 まわりから見られている惨めさなど、本人はかけらも感じていないだろう。
 そんなことを考えていると、自分の将来が見えてくる。それは、一直線な道であり、その先に見えるものも、一直線でしかない。
 だから、途中の節目、つまり竹のような節目である、
「子供から思春期、そして、思春期から大人になっていくための節が、まったく見えてこない」
 ということになるのである。
 何しろ、まっすぐ、前しか見えていないのだから……。
 さくらは、それを自分の中で、
「持って生まれたものだ」
 ということを、小学生の頃から自覚していた。
 もっとも、そんな自覚がなければ、奴隷であったり、誰かの腰ぎんちゃくのような状態になれるわけもない。それを、思春期になってから、感じるようになったのだった。
 そんな、さくらは、中学に入ると、自分を奴隷扱いしていた女の子が自分から離れていくのを感じた。
「どうしてなの? 私を見捨てないで」
 と目で訴えているが、彼女の眼は実に冷淡だ。
 いつものように上から見下ろす感覚はあるのに、さくらを自分の領域に入り込ませようとは決してしない。どういうことなのだろう?
 相手の方からすれば、単純に、
「飽きた」
 だけのことだった。
 それは、さくらに飽きたというわけではなく、そういう主従関係というもの自体に飽きたのだ。
 もし、彼女が主従関係に飽きるような人間でなければ、思春期に入った場面で、さくらを切り捨てるようなことはしないだろう。
 それまで、自分が奴隷だと思って見ていた相手が、今度は鬱陶しく感じられる。
 それを感じたことで我に返り、
「私って、奴隷を持っていたんだ」
 と、それまでの自分が何であったのかということを忘れてしまっているのだった。
 それを思うと、
「奴隷って何だったのだろう?」
 と思うと、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
 ということわざにあるように、奴隷という言葉が、さくらを刺していることで、さくらを憎く感じるようになるのだった。
 必死で目で訴える。
「私に近づくんじゃないわよ」
 とである。
 声に出さな-いのは、声を出してしまうと、
「自分が憎き奴隷を持っていたことを、認めてしまうことになるからだ」
 と感じたからだ。
 中学になると、彼女は、自己嫌悪に陥りそうなところを必死で堪えることで、こんな精神状態にしたのは、自分が悪いのではなく、まわりの環境が悪いということで、
「すべての責任を表にはじき出したい」
 と考えると、理不尽であろうがなかろうが、そもそも、奴隷として自分に近づいてきたさくらが悪いと思うのだ。
 さんざんさくらを利用しておきなから、この感情、実にひどいものであるが、結局は、
「どっちもどっち」
 なのである。
 ただ、どちらも、
「自分が悪くない」
 と思っている。
 さくらも、今まで。
「すべては、自分が悪い」
 と思っていたのは、あくまでも、主君である彼女がいてからのことであった。
 その彼女が、自分から離れそうになっていることに対して、
「自分が悪い」
 と認めてしまったら、本末転倒なこととして、
「許せない」
 と思ってしまうだろう。
 さくらも、見捨てられるには見捨てられるだけの理由があるということのはずなのに、それを認めたくないということから、見捨てられてしまい、もう元に戻れないと思うと、この怒りをどこぶつければいいのか、途方に暮れてしまうかも知れない。
 そんな時、さくらは、自分で割り切るしかないと思った。
 そして、その割り切りによって得た答えが。
「自己中心的でいいんだ」
 ということであった。
 どうせ見捨てられるのであれば、人を利用して、自分中心に物事を考える。
「そう、自分の主君が自分にしてきたようなことを、今の自分ならできる」
 と感じたのだ。
 一番近くで見ていた自分なのだからできないはずはないと思ったのだが、その見え方に問題があるということに気づいていなかった。
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次