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症候群の女たち

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 という、マンガや特撮などの世界では普通にありそうな発想なのだが、まさか、このような精神疾患があるなどと想像もしていなかったので、まりえは、自分の症状に徐々に気づいていった時には、
「こんなバカげたことを人に話すわけにはいかない」
 という思いがあった、
 そもそも、そのまわりが信用できないから、こういう意識になっているわけで、どうすればいいのかよく分からない。
 こういう現象を、
「カプグラ症候群」
 あるいは、
「カプグラ現象」
 というのだということを、まりえは、ネットで見て知ったのだった。
 精神疾患として言われ出したのは、近年のことであり、ここ50年ちょっとくらいのことだという。
 そういえば、1970年代前半のマンガで、似たような発想の話もあったように思われる。そう、知っている人は知っているかも知れないが、
「人間もどき」
 と呼ばれるものが、そうであった。
 初老暗いから上の年代の人は、カプグラ症候群の症状の話を聞いた時、この、
「人間もどき」
 の話を思い出す人が多いだろう。
 作者が、カプグラ症候群を意識して、人間もどきを考えたのかどうか分からないが、今から思えば、実にタイムリーなことだったのだ。

                 フレゴリ症候群

 さくらという女性は、まりえと違って、いつも女性に利用されているタイプだった。
 最初こそ甘い言葉で、
「友達になろう」
 という、そんな言葉に引き付けられ、
「ええ、私のような者でよければ」
 というのだ。
 この、
「私のような」
 という言葉がさくらの人間性を表している。
 彼女はまわりに対して、どうしようもないくらい。卑屈になっているのだ。しかも、それが正しいことだとして、さくらは、自分を自分の造り上げた虚像に自らで引き込んでしまうところがあった。
 こんな女性は、
「女が数人いれば、その中には一人くらいいる」
 と言われている。
 それは、集団がそういう女性を引きこむのか、それとも、一人のカリスマの力がそういう女を欲することで、そのカリスマ女性に引き込まれるのか?
 もちろん、引き込んだ方も、引き込まれた方もそんな意識があるわけではなく、
「自然と入ってきた」
 と思われることだろう。
 しかし、実際にそうであっても、いったん引き込まれてしまうと、その瞬間から、その女の運命は決まったも同然だ。
 つまりは、
「力関係が一瞬にして確立する」
 ということになる。
 力関係というのは、それぞれの持って生まれた性格が、お互いに引き合った場合、そこに生まれるのは、
「主従関係しかない」
 というものである。
 それは、武士が生き残るために築いた封建制度のようなものである。
 ただ、封建制度というのは、将軍が御家人に対して、土地を領有して、その土地を分け与えること。そして、御家人はその将軍に対して、その礼として、いざ戦があった時には戦いに興じるという、
「軍事奉仕」、
 さらには、貰った土地でできた作物を、献納するという、
「年貢奉仕」
 という形での、いわゆる
「奉公」
 というものが、君主と諸侯による、
「双方向の恩給と奉仕」
 という形で存在している。
 しかし、さくらが関わっているところの、
「主従関係」
 というのは、現代における
「絶対君主制」
 と言ってもいいかも知れない。
 王国になどによる、君主が絶対的な権力、つまり、統治におけるすべての権力を持っていて、そこには憲法などでの制限を受けることのないものをいう。
 ちなみに、日本国の前の大日本帝国は、絶対君主ではない。憲法に守られた、
「制限付きの君主国」
 であり、いわゆる、
「立憲君主」
 という言葉で言われるものなのだ。
 さくらの場合には、子供の世界で憲法などのような制限は存在せず、まわりが見えていないのか、それとも見て見ぬふりをしているからなのか、まるで、奴隷のような扱いを受けていたのだ。
 だが、それも、いつも同じ人から受けている奴隷扱いというわけではない。まわりにいる連中から、その時々で、奴隷のようにあしらわられ、うまく利用されているのであった。
 そんな状態を、さくらも自分から抗おうとはしない。それが、さくらの小学生時代だった。
 これは、苛めというのとは、少し違っていた。
 苛めというと、決まった苛めっ子というのが存在し、いじめられっ子というものが存在することで成り立つのは同じことなのだが、一番違うのは、同じように、他の人はなかなか知ることができないのは、
「苛めというものが、苛めっ子側で、必死に隠そうとしていうこと」
 であった。
 だから、苛められる子は、必死で苛めてくる子から逃れようとして、不登校になったり、まわりから、何かを言われないように引きこもってしまうことになるのだ。
 苛められていることに対して、いじめられっ子は意識がある。これはいじめられっ子それぞれに性格の違いがあるのだろうが、
「苛められているということに対し、自己嫌悪に陥るというもので、苛められている自分を恥ずかしいということで、その事実を自分が認めたくないという思いから、まわりに自ら隠そう」
 とする行為、さらには、
「親や先生が、いじめられっ子にも問題があるとして、下手に苛められていることを話したりすると、最終的に、すべてが敵になってしまい、自分が苛めのスパイラルから抜けられない」
 と感じること。
 実はこれが一番恐ろしく、この思いが過剰になってくると、自殺などに追い込まれてしまいかねないということになるだろう。
 そして、もう一つは、今度は逆に、
「親や先生にいうと、苛められている子に、必要以上に加担してしまい、苛めっ子がすべて悪いということで、問題が大きくなりすぎて、事態が収拾つくことがなく、却って苛めっ子を煽る形になり、お前が告げ口をしたせいで、俺たちが悪者になったなどということで、苛めがさらに加速する」
 ということになってしまう。
 この場合も悲惨なことになるが、意外とこういうパターンが多いのかも知れない。
 だが、さくらの場合の
「絶対的な奴隷制度」
 のような関係は、まわりを巻き込む前に、すでに主従の間で出来上がってしまっているのだ。
 だから、奴隷扱いされている、さくらも、まわりからは、
「完全に奴隷扱いされている」
 ということが見えていたとしても、本人に嫌な気がしていないのだから、まわりはどうすることもできない。
 本人たちが納得してやっていることなのだから、主君側もまわりに隠そうとすることはない。
 むしろ、
「私には奴隷がいるんだ」
 というのをまわりに知らしめることで、自分のマウントを取ろうという意識が芽生えることになるのかも知れない。
 それが、さくらの小学生時代の生き方であり、
「人それぞれに生き方があるけど、これが私の生き方だ」
 と思っていた。
 小学生の頃から、自分の生き方を限定している人は、ほぼいないだろう。
 何しろ、まだ成長はこれからで、自分がまだ子供だという意識があるからである。
「子供の自分が、まだこれから未知の可能性を秘めているかも知れないのに、最初から運命や性格を決めてしまう」
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次